2018年07月01日

174.翁長知事の平和宣言(2018年6月23日)

「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか」。

上記は2018年6月23日の沖縄慰霊の日の、翁長知事による平和宣言の一節である。朝鮮半島の非核化への共同声明が、米朝首脳会談で発表されたにもかかわらず、辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策という日本政府。ここに至ってなお、どうしても辺野古に新基地を作らなければならないというのなら、納得のいく説明を聞かせていただきたし。以下は沖縄慰霊の日に寄せられた、翁長知事による平和宣言全文である。

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二十数万人余の尊い命を奪い去った地上戦が繰り広げられてから、73年目となる6月23日を迎えました。

私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び、平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日を生きています。

戦後焼け野原となった沖縄で、私たちはこの「沖縄のこころ」をよりどころとして、復興と発展の道を力強く歩んできました。

しかしながら、戦後実に73年を経た現在においても、日本の国土面積の約0.6%にすぎないこの沖縄に、米軍専用施設面積の約70.3%が存在し続けており、県民は、広大な米軍基地から派生する事件・事故、騒音をはじめとする環境問題等に苦しみ、悩まされ続けています。

昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、先日の、米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや平和体制の構築について共同声明が発表されるなど緊張緩和に向けた動きがはじまっています。
 
平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません。「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません。
 
これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきたとおり、沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制の在り方について、真摯(しんし)に考えていただきたいと願っています。
 
東アジアでの対話の進展の一方で、依然として世界では、地域紛争やテロなどにより、人権侵害、難民、飢餓、貧困などの多くの問題が山積しています。
 
世界中の人々が、民族や宗教、そして価値観の違いを乗り越えて、強い意志で平和を求め協力して取り組んでいかなければなりません。
 
かつて沖縄は「万国津梁(しんりょう)」の精神の下、アジアの国々との交易や交流を通し、平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。
 
そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、再び、アジアの国々を絆(つな)ぐことができる素地ができてきており、日本とアジアの架橋(かけはし)としての役割を担うことが期待されています。
 
その期待に応えられるよう、私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません。
 
本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げるとともに、恒久平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に伝え、未来を担う子や孫が心穏やかに笑顔で暮らせる「平和で誇りある豊かな沖縄」を築くため、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。
posted by Lily at 18:09 | 政治と憲法
2018年06月24日

173.沖縄戦

「日本ではどうしても記憶しなければならないことが4つあると思います。終戦記念
日と、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日」
(『戦争をしない国 明仁天皇のメッセージ』pp.44-45)。

明仁天皇の、昭和56年(1981年)8月のお言葉である。実際、6月23日と聞いて、沖
縄戦終結の日と答えられる日本人はどれほどいるだろうか。毎年のこの日、沖縄県で
は慰霊祭が行われている。しかし、本土では実況中継はおろか、ほとんどニュースに
されないのが実情だ。これでいいのか。いいわけがない。陛下は必ずこの4つの日に
家族で黙とうをささげるそうだ。

今年も6月23日を迎えたばかり。これを機に以下、沖縄市役所の『沖縄戦の実相』か
ら。

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■ 沖縄戦とは

沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連
合軍と日本軍との間で行われた戦いでした。

沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で
行われました。沖縄守備軍(第32軍)の任務は、南西諸島を本土として守りぬくこと
ではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けし、国体護持・本土決戦に備えるこ
とでありました。

1.米軍本島上陸

米軍は、沖縄本島上陸前の1週間で約40,000発の砲弾を撃ち込み、1,600機の艦載機で
爆撃・機銃を加えたといわれています。そして、4月1日、本島中部西海岸(北谷村、
読谷村)から日本軍の抵抗をほとんど受けることなく、無血上陸に成功し、米軍は、
その日の午後2時頃には北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を占領
し、翌2日ないし3日には石川や泡瀬方面の東海岸まで到達して本島を二分する作戦に
でました。そして、4月5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯をほぼ制圧した
のです。

2.本土分断

本島分断に成功した米軍は、主力を首里方面へ向けて進撃し、一部の海兵師団は海岸
沿いに北上しました。本島北部には、本部半島の国頭支援(宇土部隊)を除けば日本
軍の主力は配置されてなく、北上した米軍は進撃を続け、北部最大の激戦地といわれ
た伊江島も21日には完全に占領されたのです。

3.日本軍主戦力の8割を失う

米軍の主力は、4月7日頃から沖縄守備軍の陣取っていた首里方面をめざして総攻撃開
始。これに対し、日本軍は首里陣地本部を死守しようと反撃し、日米両軍は首里北方
の浦添村前田、宜野湾村の嘉数高地を中心に一進一退の攻防戦を40日間も展開し、こ
の戦闘で日本軍は主戦力の8割を失い、5月下旬、首里を放棄して本島南端の摩文仁へ
撤退しました。

4.牛島司令官自決

摩文仁へ撤退はしたものの、日本軍はすでに主力の大半を失っており、6月20日前後
には軍の組織的抵抗はほとんどなくなったといわれています。やがて、6月22日(23
日)、牛島満軍司令官と長勇参謀長は摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決。しかし、牛
島らは部下に対して「最後まで敢戦」するように命じていたため、以後、日本軍の敗
残兵が各地で出没することとなります。

5.6月23日以降もなお続く戦闘

宮古郡島や八重山郡島では8月15日まで戦闘状態が続いており、日本軍が武装解除さ
れたのは9月上旬のことでした。ところが、日本政府は8月14日にポツダム宣言を受諾
して敗戦処理に取りかかっており、ひとり沖縄だけがなお、戦闘状態が続いていたこ
とになります。8月26日にいたって、沖縄戦攻略部隊のアメリカ第10軍司令部は「9月
2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じるように」連合司令部から命令をうけて
います。これは、9月2日に東京湾のミズリー号上で、日本が連合軍にたいして公式に
降伏調印をしたことをうけて、最終的に沖縄戦を終結に導くものでありました。

6.沖縄戦の終結

沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行
われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団
長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執
行されました。1945年(昭和20年)9月7日のことであります。
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年号や日付だけを暗記する歴史教育がいかに無意味なことか。正しい歴史認識へのア
プローチを試みるたびに感じることである。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法
2018年06月17日

172.「教育勅語」の現代語訳

「教育勅語」なるものが、1890年(明治23年)10月、明治天皇が、国民に教育の目的と理念を示す形で発布された。当時の子供たちは、意味がわかろうがわかるまいが丸暗記をさせられたという。大人の筆者が見ても、漢字が多くて何が何やらさっぱりだが、そこは現代語訳というものがある。例えば、明治神宮の公式サイトにこういうものが載っているのだ。


私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(国民道徳協会訳文による)


しかしである。この現代語訳について、作家の高橋源一郎さんはTwitterでこのようにつぶやいている。


たとえば、「朕惟フ」と言うと、ふつう「私は思う」と訳す。もちろん間違っていない。でも、なんか違う。「朕」を使えるのは、天皇ただひとり。同時代で、「朕惟フ」を読んだ人は、「私は思う」とは受けとらなかったんじゃないかな。正確だけれど「正しくない」訳、そんな気がする(2:40 PM - Mar 15, 2017)。


さよか。で、当のご本人。ご自身の口語訳を提供しておられる。以下に原文通り番号付きで引かせていただく。


教育勅語@「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」

教育勅語A「きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです」

教育勅語B「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」

教育勅語C「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」

教育勅語D「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」

教育勅語E「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです

教育勅語F「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」

教育勅語G「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上! 明治二十三年十月三十日 天皇」
posted by Lily at 10:45 | 政治と憲法

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