2018年08月26日

182.平成最後の戦没者追悼式にて

こと憲法に関し、このお2人が正反対のお考えであることを疑う人は皆無だろう。陛下は日本国憲法を「守るべき大切なもの」と考えておられる。一方、現首相はこの憲法に対し「みっともない憲法」とすら言い放ったことがある。

かの玉音放送から73年となる8月15日、日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた。2015年(いわゆる戦後70年)以来くり返されてきた、陛下の「深い反省」という表現は今回も聞かれた。一方、安倍首相が第二次政権発足後から使わずにきた「加害と反省」の表現は、今回もまた聞かれずじまいであった。

平成最後の天皇陛下の言葉、ならびに安倍総理の式辞は以下の通り。

■天皇陛下の追悼のお言葉
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

■安倍総理の式辞
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
 苛烈を極めた先の大戦において、祖国を想い、家族を案じつつ、戦場に斃れた御霊。戦禍に遭い、あるいは戦後、遠い異郷の地で亡くなった御霊。いまその御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
 未だ帰還を果たしていない、多くの御遺骨のことも、脳裏から離れることはありません。一日も早く故郷に戻られるよう、全力を尽くして参ります。
 戦後、我が国は、平和を重んじる国として、ただひたすらに、歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため、力を尽くしてまいりました。戦争の惨禍を二度と繰り返さない、歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この決然たる誓いを貫いて参ります。
 争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する。そのことに不断の努力を重ねて参ります。今を生きる世代、明日を生きる世代のため、国の未来を切り拓いて参ります。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。


posted by Lily at 16:04 | 政治と憲法
2018年08月19日

181.平成最後の長崎平和宣言(全文)

2018年8月9日。田上富久長崎市長は、いまだ核兵器禁止条約に署名しない日本政府に訴えた。「日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます」。以下はこの日に田上市長が読み上げた、平成最後の長崎平和宣言である。

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73年前の今日、8月9日午前11時2分。真夏の空にさく裂した一発の原子爆弾により、長崎の街は無残な姿に変わり果てました。人も動物も草も木も、生きとし生けるものすべてが焼き尽くされ、廃墟(はいきょ)と化した街にはおびただしい数の死体が散乱し、川には水を求めて力尽きたたくさんの死体が浮き沈みしながら河口にまで達しました。15万人が死傷し、なんとか生き延びた人々も心と体に深い傷を負い、今も放射線の後障害に苦しみ続けています。

原爆は、人間が人間らしく生きる尊厳を容赦なく奪い去る残酷な兵器なのです。

1946年、創設されたばかりの国際連合は、核兵器など大量破壊兵器の廃絶を国連総会決議第1号としました。同じ年に公布された日本国憲法は、平和主義を揺るぎない柱の一つに据えました。広島・長崎が体験した原爆の惨禍とそれをもたらした戦争を、二度と繰り返さないという強い決意を示し、その実現を未来に託したのです。

昨年、この決意を実現しようと訴え続けた国々と被爆者をはじめとする多くの人々の努力が実り、国連で核兵器禁止条約が採択されました。そして、条約の採択に大きな貢献をした核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞しました。この二つの出来事は、地球上の多くの人々が、核兵器のない世界の実現を求め続けている証です。

しかし、第二次世界大戦終結から73年がたった今も、世界には14450発の核弾頭が存在しています。しかも、核兵器は必要だと平然と主張し、核兵器を使って軍事力を強化しようとする動きが再び強まっていることに、被爆地は強い懸念を持っています。

核兵器を持つ国々と核の傘に依存している国々のリーダーに訴えます。国連総会決議第1号で核兵器の廃絶を目標とした決意を忘れないでください。そして50年前に核不拡散条約(NPT)で交わした「核軍縮に誠実に取り組む」という世界との約束を果たしてください。人類がもう一度被爆者を生む過ちを犯してしまう前に、核兵器に頼らない安全保障政策に転換することを強く求めます。

そして世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国の政府と国会に条約の署名と批准を求めてください。

日本政府は、核兵器禁止条約に署名しない立場をとっています。それに対して今、300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます。

今、朝鮮半島では非核化と平和に向けた新しい動きが生まれつつあります。南北首脳による「板門店宣言」や初めての米朝首脳会談を起点として、粘り強い外交によって、後戻りすることのない非核化が実現することを、被爆地は大きな期待を持って見守っています。日本政府には、この絶好の機会を生かし、日本と朝鮮半島全体を非核化する「北東アジア非核兵器地帯」の実現に向けた努力を求めます。

長崎の核兵器廃絶運動を長年牽引(けんいん)してきた二人の被爆者が、昨年、相次いで亡くなりました。その一人の土山秀夫さんは、核兵器に頼ろうとする国々のリーダーに対し、こう述べています。「あなた方が核兵器を所有し、またこれから保有しようとすることは、何の自慢にもならない。それどころか恥ずべき人道に対する犯罪の加担者となりかねないことを知るべきである」。もう一人の被爆者、谷口稜曄(すみてる)さんはこう述べました。「核兵器と人類は共存できないのです。こんな苦しみは、もう私たちだけでたくさんです。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません」。

二人は、戦争や被爆の体験がない人たちが道を間違えてしまうことを強く心配していました。二人がいなくなった今、改めて「戦争をしない」という日本国憲法に込められた思いを次世代に引き継がなければならないと思います。

平和な世界の実現に向けて、私たち一人ひとりに出来ることはたくさんあります。

被爆地を訪れ、核兵器の怖さと歴史を知ることはその一つです。自分のまちの戦争体験を聴くことも大切なことです。体験は共有できなくても、平和への思いは共有できます。

長崎で生まれた核兵器廃絶一万人署名活動は、高校生たちの発案で始まりました。若い世代の発想と行動力は新しい活動を生み出す力を持っています。

折り鶴を折って被爆地に送り続けている人もいます。文化や風習の異なる国の人たちと交流することで、相互理解を深めることも平和につながります。自分の好きな音楽やスポーツを通して平和への思いを表現することもできます。市民社会こそ平和を生む基盤です。「戦争の文化」ではなく「平和の文化」を、市民社会の力で世界中に広げていきましょう。

東日本大震災の原発事故から7年が経過した今も、放射線の影響は福島の皆さんを苦しめ続けています。長崎は、復興に向け努力されている福島の皆さんを引き続き応援していきます。

被爆者の平均年齢は82歳を超えました。日本政府には、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、今も被爆者と認定されていない「被爆体験者」の一日も早い救済を求めます。

原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界と恒久平和の実現のため、世界の皆さんとともに力を尽くし続けることをここに宣言します。
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posted by Lily at 15:33 | 政治と憲法
2018年08月12日

180.平成最後の広島平和宣言(全文)

沖縄の翁長知事が8月8日に急逝した。翁長氏による 6月23日の平和宣言は、平成最後の沖縄平和宣言であると同時に、氏の魂をふりしぼった最期のメッセージでもあった。氏の平和宣言をこのブログ(資料編)に収めたところであるが(174.ご参照)、あわせて平成最後の広島平和宣言、そして長崎平和宣言を収録しておくべきだと考える次第である。まず、こちら広島平和宣言である。

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73年前、きょうと同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました。皆さん、あなたや大切な家族がそこにいたらと想像しながら聞いてください。8時15分、目もくらむ一瞬の閃光(せんこう)。セ氏100万度を超える火の玉からの強烈な放射線と熱線、そして猛烈な爆風。立ち昇ったきのこ雲の下で何の罪もない多くの命が奪われ、街は破壊し尽くされました。「熱いよう!痛いよう!」つぶれた家の下から母親に助けを求め叫ぶ子どもの声。「水を、水を下さい!」息絶え絶えのうめき声、うなり声。人が焦げる臭気の中、赤い肉をむき出しにして亡霊のごとくさまよう人々。随所で降った黒い雨。脳裏に焼きついた地獄絵図と放射線障害は、生き延びた被爆者の心身をむしばみ続け、今なお苦悩の根源となっています。

世界にいまだ1万4000発を超える核兵器がある中、意図的であれ偶発的であれ、核兵器がさく裂したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。

被爆者の訴えは、核兵器の恐ろしさを熟知し、それを手にしたいという誘惑を断ち切るための警鐘です。年々被爆者の数が減少する中、その声に耳を傾けることが一層重要になっています。20歳だった被爆者は「核兵器が使われたなら、生あるもの全て死滅し、美しい地球は廃虚と化すでしょう。世界の指導者は被爆地に集い、その惨状に触れ、核兵器廃絶に向かう道筋だけでもつけてもらいたい。核廃絶ができるような万物の霊長たる人間であってほしい」と訴え、命を大切にし、地球の破局を避けるため、為政者に対し「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かうよう求めています。

昨年、核兵器禁止条約の成立に貢献したICANがノーベル平和賞を受賞し、被爆者の思いが世界に広まりつつあります。その一方で、今世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められるなど、各国間に東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況にあります。

同じく20歳だった別の被爆者は訴えます。「あのような惨事が二度と世界に起こらないことを願う。過去の事だとして忘却や風化させてしまうことがあっては絶対にならない。人類の英知を傾けることで地球が平和に満ちた場所となることを切に願う」。人類は歴史を忘れ、あるいは直視することをやめたとき、再び重大な過ちを犯してしまいます。だからこそ私たちは「ヒロシマ」を「継続」して語り伝えなければなりません。核兵器の廃絶に向けた取り組みが、各国の為政者の「理性」に基づく行動によって「継続」するようにしなければなりません。

核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核拡散防止条約)に義務付けられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取り組みを進めていただきたい。

私たち市民社会は、朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって平和裏に進むことを心から希望しています。為政者が勇気を持って行動するために、市民社会は多様性を尊重しながら互いに信頼関係を醸成し、核兵器の廃絶を人類共通の価値観にしていかなければなりません。世界の7600を超える都市で構成する平和首長会議は、そのための環境づくりに力を注ぎます。

日本政府には、核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

本日、私たちは思いを新たに、原爆犠牲者のみ霊に衷心より哀悼の誠をささげ、被爆地長崎、そして世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。
posted by Lily at 13:34 | 政治と憲法
2018年08月05日

179.日米関係さもあらん(3)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

25. 第二次世界大戦の日本においても、東京裁判にかけられるところまではいかなくても、職を奪われた人たちが大勢いました。まず軍国主義に関与した人物として、1946年1月に約6千名が公職から追放されました。ついで1947年1月から48年8月までのあいだに、政党・経済界・報道機関などの要職についていた人たちが約19万名追放されています。当時の雰囲気を、内務省で公職追放令を創る作業にあたっていた後藤田正晴(のちに警察庁長官、官房長官などを歴任)は、次のように書いています。「みんな自分だけは解除してくれと頼みに来る。見るも無残だな。えらい人が陳情にくるんだ。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと〔思ったものだ〕」(『情と理―後藤田正晴回顧録』講談社)。こうした状況のなか、なんとか米国に追従しようとする動きがうまれてくるのは当然かもしれません。

26. 戦後の日本外交における「自主路線」のシンボルが重光葵です。「対米追随路線」のシンボルが吉田茂です。そして重光は当然のように追放されます。重光外相は、降伏文書に署名した9月2日のわずか2週間後、9月17日に外務大臣を辞任させられています。「日本の国益を堂々と主張する」。米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。求められるのは「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう外務大臣です。それが吉田茂でした。重光が辞任した後、次の外務大臣は吉田茂になります。戦後の日本外交の歴史において「自主路線」が「対米追随路線」にとって代わられる最初の例です。

27. 吉田茂は占領期・占領後を通じて、外相、首相と重要な役職を歴任し、戦後日本の方向を決めた人物です。さらに吉田の政策はその後、自民党の政策となり、50年以上継続します。

28. 占領初期、米国は日本経済を徹底的に破壊します。現在の私たちが常識としているような「寛容な占領」だったわけでは、まったくありません。その方針が変わるのは冷戦が始まり、日本をソ連との戦争に利用しようと考えるようになってからのことなのです。吉田首相が占領軍とやりあったから、戦後の経済復興があったわけではありません。

29. 占領時代、外務省はどの官庁よりも米国の影響を受けました。外務省に、気を見るに敏,事大主義の気質がどの官庁よりも強く存在していても不思議はない気がします。

30. 「日本は米国の保護国である」といえば、多くの人は「そんなバカな」という反応を示されると思います。しかし米国人の発言のなかには、たしかに保護国という言葉が出てくるのです。ブレジンスキー(カーター大統領時代、国家安全保障担当の大統領補佐官として辣腕をふるった人です)は『グランド・チェスボード』という本の中で、日本をアメリカの「安全保障上の保護国」(セキュリティ・プロテクトレイト)と書いています。

31. 「日本が米国の保護国である」という状況は、占領時代に作られ、現在までつづいているものです。ではなぜ、「日本が米国の保護国である」という状況が、一般国民の眼には見えないのでしょう。それは実にみごとな間接統治が行われているからです。間接統治では、政策の決定権は米国がもっています。しかし米国の指示を執行するのは日本政府です。「米国が日本政府に命令している場面」は国民に見えません。見えるのは日本政府が政策を実行しているところだけです。その部分だけを見ると、日本は完全に独立しているように見えます。しかしだれが安全保障政策を決定し、命令しているかとなるとそれは米国です。日本はただ従属しているだけというケースが多いのです。
posted by Lily at 17:21 | 政治と憲法
2018年07月29日

178.日米関係さもあらん(2)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

16. 日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう。こう聞くとほとんどの人が、「1945年8月15日にきまってるじゃないか。いまさら、なにをいってるんだ」とおっしゃるかもしれません。たしかに8月15日は終戦記念日とされています。

17. それでは日本と戦った米国、英国、中国、ソ連は、どの時点を日本との戦いの終わりとみているでしょうか。私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです。

18. 通常、戦争は戦闘行為を停止し、休戦条約を結び、講和条約(平和条約)の交渉をして調印するという手順をふんで、はじめて終戦となります。昭和天皇が「時局を収拾したい」とか、「共同声明を受け入れることにした」とのべられたのは、そうした手順の一部にしかすぎません。ドイツは1945年5月7日、降伏文書に署名し終戦をむかえました。日本も1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国艦船ミズーリ号で降伏文書に署名しています。

19. 日本が終戦記念日を8月15日とし、9月2日としていないことに、なにか意味があるのでしょうか。あります。それは9月2日を記念日にした場合、けっして「終戦」記念日とはならないからです。あきらかに「降伏」した日なわけですから。そう、日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目
をそらしつづけているのです。

20. 「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう。

21. 日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」ことを約束したのです。降伏文書には「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」ということが書かれています。

22. 第二次大戦後、日本は米国に完全に従属する形で新しいスタートを切ったのです。そうした占領期に、日本の首相として活躍したのが吉田茂です。

23. 1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印式が行われました。ミズーリ号を調印の場にするというのは、トルーマン大統領自身が決めていた計画です。いったいなぜか。答えは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北を印象づけるために、米艦隊のなかでもっとも強力な軍艦の上で行う」というのが、戦艦ミズーリ号が選ばれた理由でした。

24. 日本は1945年9月2日、降伏しました。「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。それが、1945年9月2日から1951年9月8日(日本時間9日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法
2018年07月22日

177.日米関係さもあらん(1)〜孫崎享『戦後史の正体』より〜

筆者が憲法と向き合って久しいが、その過程で避けては通れない2つの問題に気がついた。1つは歴史。具体的には満州事変以降の日本の歴史である。そしてもう一つが日米関係だ。人権は憲法で保障されているはずである。その人権が守られない時、アメリカが関与しているケースのなんと多いことか。沖縄がいい例だ。

なぜ日本はここまでアメリカに弱いのか? なぜすべての政策においてアメリカの言いなりなのか? この疑問は長らく筆者の中でくすぶり続けていた。そして「日米関係と日本国憲法は両立しない」ということを確信するに至った。今、この疑問の核心がくっきりと見えるところまであと一歩、というところまで来たように思う。優れた本たちのおかげである。孫崎享さんの『戦後史の正体』もそうした書物の1冊。さもあらん! と納得する箇所が随所にあった。うろこがいくつあっても足りないと思うほど目からうろこが落ち、次第にそうしたポイントを資料として控えておきたくなった。この作業はしばらく続きそうである。ぜひ、お付き合いされたし。


01. 日本の戦後史は「米国からの圧力」を前提に考察しなければ、その本質が見えてきません。

02. 戦後の日本外交は、米国に対する「追従」路線と「自主」路線の戦いでした。

03. 日米の外交におけるもっとも重要な課題は、つねに存在する米国からの圧力(これは想像以上に強力なものです)に対して、「自主」路線と「対米追随」路線のあいだでどのような選択をするかということです。そしてそれは終戦以来、すっとつづいてきたテーマなのです。

04. 「なぜ日本はこうも米国の圧力に弱いのだろう」この問いは、私の外務省時代を通じて、常につきまとった疑問でもありました。

05. 米国からの圧力や裏工作は、現実に存在します。

06. 日本は1945年9月2日、ミズーリ号で降伏文書に署名しました。そこから「戦後」が始まります。この戦後の最初の日から、日本は「対米追随」と「自主」のあいだで重大な選択をつきつけられたのです。

07. 多くの政治家が「対米追随」と「自主」のあいだで苦悩し、ときに「自主」路線を選択しました。歴史を見れば、「自主」を選択した多くの政治家や官僚は排斥されています。

08. 私は日本のなかでもっとも米国の圧力に弱い立場にいるのが首相だと思っています。

09. 冷戦期にアメリカ(CIA)やソ連(KGB)がイタリアで行なっていた裏工作は、同じく日本でも行われていたと考えるのが常識です。事実、1950年代から60年代にかけて、CIAが自民党や民社党の政治家に巨額の資金を提供していたことは、米国側の公文書によってあきらかにされています。歴史を勉強していない人だけが、それを「陰謀論だ」などといって安易に否定するのです。

10. 日本が今後、国家としての方針を決定するときも、過去の歴史のなかでどうような形で米国から圧力をかけられ、どうような形で路線選択をしてきたか、よく知っておく必要があります。とくに米国に対し「自主」路線をつらぬくことがどれほどむずかしいか、よく理解しておく必要があります。

11. 日本の戦後史について、いろいろと素晴らしい研究があります。しかし日本の戦後史全体を、米国からの圧力とそれへの抵抗を軸に記述した本はありません。

12. 米国に対する「追随路線」と「自主路線」の対立という視点から大きな歴史の流れをみることによって、はじめて日本人は過去の歴史を正確に理解することができ、日本の行く先も見えるようになるのだと思います。

13. 私は長く外務省にいたため、米国からのさまざまな圧力や、「対米追随」と「自主」というふたつの外交路線の対立について、実際に現場で体験しています。その大きな歴史の流れを描くことを、もしだれかがやらなければならないとすれば、勇気をもって行うべきはおそらく外務省のOBでしょう。

14. 戦後の混乱のなかで、米国に毅然と立ち向かい、意見を主張した政治家たちがいました。重光葵、石橋湛山、芦田均、鳩山一郎などです。驚くことに多くの人の印象とは逆に、岸信介もこのなかに入ります。そして彼らの多くは、米国によって政治の表舞台から排斥されています。

15. 対米追随路線と自主路線。このふたつの糸で戦後の日米関係を書いてみたいと思います。冷戦後ではなく、1945年9月2日から始めたいと思います。


posted by Lily at 15:17 | 政治と憲法
2018年07月15日

176.アメリカの「小麦戦略」

憲法問題を掘り下げるにあたり、やはりアメリカという国を知ることが欠かせないと筆者は考えている。憲法のウラにアメリカがいる。いなかったことが一度もない。そうではなかろうか。

アメリカという国は、一言で言えばすごい国である。偉大とも言えるし恐ろしいとも言える。とにかく大きな力を持った国である。戦後のアメリカの「小麦戦略」は、そんなアメリカの一側面だろう。以下、るいネット「日本の食もアメリカに支配されている」から「『アメリカ小麦戦略』(食生活史研究家の鈴木猛夫著)より抜粋」を引用させていただく。

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■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫
 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。

■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。
 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。

■アメリカ小麦戦略
 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。

■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など
 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。
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また、別のブログ(「管理栄養士圓尾 和紀のカラダヨロコブログ」)にかような記載を見るが、

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1945年に戦争が終わると、
状況は一変します。
 
アジアでは戦いが終わったことにより、
兵士たちの食糧が必要なくなりました。
 
一方、ヨーロッパでも農業が復興し、
アメリカに頼らずとも
自国で食糧がまかなえるように回復したのです。
 
これにより、アメリカは困ります。
それまで多額に資金を投資し、
大量の農産物を作って輸出していましたが、
突如それまであった需要がぽっかりと
消滅してしまったのです。
 
このままではアメリカは大量の小麦をはじめとする
農産物の在庫を抱えることになり、
国内の農業に大打撃を与えてしまします。
 
さらに悪いことには、麦は米のように保存性が高くないため、
アメリカにとっては火急の問題でした。
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この問題を解決するのに、日本がひと役買った、あるいは買わされた事実は否めない。アメリカの計画は見事に成功している。つくづく、恐ろしいほど大きな力を持った国である。



posted by Lily at 19:56 | 政治と憲法
2018年07月08日

175.平和の詩「生きる」全文

2018年6月23日の沖縄慰霊の日。沖縄県糸満市の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が行われた。その式典、相良倫子さん自作の「平和の詩」が際立っていた。詩そのものも、朗読ぶりも、立派であった。歴史学者の住友陽文さんも「名文とあると同時に、現代史の史料として長く保存されるべき文章だ」と絶賛している(2018/06/26琉球新報)。さよう。資料として保存すべく、原文のままの保存版(沖縄県平和祈念資料館提供)。



<平和の詩全文> 生きる 浦添市立港川中学校3年 相良 倫子

生きる 浦添市立港川中学校3年 相良 倫子


私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
私は今、生きている。
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
私はこの瞬間を、生きている。
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃え尽くされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。
手を取り合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法
2018年07月01日

174.翁長知事の平和宣言(2018年6月23日)

「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか」。

上記は2018年6月23日の沖縄慰霊の日の、翁長知事による平和宣言の一節である。朝鮮半島の非核化への共同声明が、米朝首脳会談で発表されたにもかかわらず、辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策という日本政府。ここに至ってなお、どうしても辺野古に新基地を作らなければならないというのなら、納得のいく説明を聞かせていただきたし。以下は沖縄慰霊の日に寄せられた、翁長知事による平和宣言全文である。

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二十数万人余の尊い命を奪い去った地上戦が繰り広げられてから、73年目となる6月23日を迎えました。

私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び、平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日を生きています。

戦後焼け野原となった沖縄で、私たちはこの「沖縄のこころ」をよりどころとして、復興と発展の道を力強く歩んできました。

しかしながら、戦後実に73年を経た現在においても、日本の国土面積の約0.6%にすぎないこの沖縄に、米軍専用施設面積の約70.3%が存在し続けており、県民は、広大な米軍基地から派生する事件・事故、騒音をはじめとする環境問題等に苦しみ、悩まされ続けています。

昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、先日の、米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや平和体制の構築について共同声明が発表されるなど緊張緩和に向けた動きがはじまっています。
 
平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません。「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません。
 
これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきたとおり、沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制の在り方について、真摯(しんし)に考えていただきたいと願っています。
 
東アジアでの対話の進展の一方で、依然として世界では、地域紛争やテロなどにより、人権侵害、難民、飢餓、貧困などの多くの問題が山積しています。
 
世界中の人々が、民族や宗教、そして価値観の違いを乗り越えて、強い意志で平和を求め協力して取り組んでいかなければなりません。
 
かつて沖縄は「万国津梁(しんりょう)」の精神の下、アジアの国々との交易や交流を通し、平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。
 
そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、再び、アジアの国々を絆(つな)ぐことができる素地ができてきており、日本とアジアの架橋(かけはし)としての役割を担うことが期待されています。
 
その期待に応えられるよう、私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません。
 
本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げるとともに、恒久平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に伝え、未来を担う子や孫が心穏やかに笑顔で暮らせる「平和で誇りある豊かな沖縄」を築くため、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。
posted by Lily at 18:09 | 政治と憲法
2018年06月24日

173.沖縄戦

「日本ではどうしても記憶しなければならないことが4つあると思います。終戦記念
日と、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日」
(『戦争をしない国 明仁天皇のメッセージ』pp.44-45)。

明仁天皇の、昭和56年(1981年)8月のお言葉である。実際、6月23日と聞いて、沖
縄戦終結の日と答えられる日本人はどれほどいるだろうか。毎年のこの日、沖縄県で
は慰霊祭が行われている。しかし、本土では実況中継はおろか、ほとんどニュースに
されないのが実情だ。これでいいのか。いいわけがない。陛下は必ずこの4つの日に
家族で黙とうをささげるそうだ。

今年も6月23日を迎えたばかり。これを機に以下、沖縄市役所の『沖縄戦の実相』か
ら。

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■ 沖縄戦とは

沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連
合軍と日本軍との間で行われた戦いでした。

沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で
行われました。沖縄守備軍(第32軍)の任務は、南西諸島を本土として守りぬくこと
ではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けし、国体護持・本土決戦に備えるこ
とでありました。

1.米軍本島上陸

米軍は、沖縄本島上陸前の1週間で約40,000発の砲弾を撃ち込み、1,600機の艦載機で
爆撃・機銃を加えたといわれています。そして、4月1日、本島中部西海岸(北谷村、
読谷村)から日本軍の抵抗をほとんど受けることなく、無血上陸に成功し、米軍は、
その日の午後2時頃には北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を占領
し、翌2日ないし3日には石川や泡瀬方面の東海岸まで到達して本島を二分する作戦に
でました。そして、4月5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯をほぼ制圧した
のです。

2.本土分断

本島分断に成功した米軍は、主力を首里方面へ向けて進撃し、一部の海兵師団は海岸
沿いに北上しました。本島北部には、本部半島の国頭支援(宇土部隊)を除けば日本
軍の主力は配置されてなく、北上した米軍は進撃を続け、北部最大の激戦地といわれ
た伊江島も21日には完全に占領されたのです。

3.日本軍主戦力の8割を失う

米軍の主力は、4月7日頃から沖縄守備軍の陣取っていた首里方面をめざして総攻撃開
始。これに対し、日本軍は首里陣地本部を死守しようと反撃し、日米両軍は首里北方
の浦添村前田、宜野湾村の嘉数高地を中心に一進一退の攻防戦を40日間も展開し、こ
の戦闘で日本軍は主戦力の8割を失い、5月下旬、首里を放棄して本島南端の摩文仁へ
撤退しました。

4.牛島司令官自決

摩文仁へ撤退はしたものの、日本軍はすでに主力の大半を失っており、6月20日前後
には軍の組織的抵抗はほとんどなくなったといわれています。やがて、6月22日(23
日)、牛島満軍司令官と長勇参謀長は摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決。しかし、牛
島らは部下に対して「最後まで敢戦」するように命じていたため、以後、日本軍の敗
残兵が各地で出没することとなります。

5.6月23日以降もなお続く戦闘

宮古郡島や八重山郡島では8月15日まで戦闘状態が続いており、日本軍が武装解除さ
れたのは9月上旬のことでした。ところが、日本政府は8月14日にポツダム宣言を受諾
して敗戦処理に取りかかっており、ひとり沖縄だけがなお、戦闘状態が続いていたこ
とになります。8月26日にいたって、沖縄戦攻略部隊のアメリカ第10軍司令部は「9月
2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じるように」連合司令部から命令をうけて
います。これは、9月2日に東京湾のミズリー号上で、日本が連合軍にたいして公式に
降伏調印をしたことをうけて、最終的に沖縄戦を終結に導くものでありました。

6.沖縄戦の終結

沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行
われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団
長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執
行されました。1945年(昭和20年)9月7日のことであります。
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年号や日付だけを暗記する歴史教育がいかに無意味なことか。正しい歴史認識へのア
プローチを試みるたびに感じることである。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法