2018年11月11日

193.「伊達判決」の主旨[吉田敏浩著『検証・法治国家の崩壊』より]

「伊達判決」として知られる東京地裁の判決は、筋が通っている。以下、この判決の主旨である。出典は、吉田敏浩著『検証・法治国家の崩壊』p102。

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日米安保条約では、日本に駐留する米軍は、日本の防衛のためだけでなく、極東における平和と安全の維持のため、戦略上必要と判断したら日本国外にも出動できるとしている。その場合、日本が提供した基地は米軍の軍事行動のために使用される。その結果、日本が直接関係のない武力紛争に巻きこまれ、戦争の惨禍が日本におよぶおそれもある。

したがって、安保条約によりこのような危険をもたらす可能性を含む米軍駐留を許した日本政府の行為は、『政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に反するのではないか。

このような実質をもつ米軍の駐留は、日本政府の要請と米政府の承諾があったからで、つまり日本政府の行為によるものだといえる。米軍の駐留は、日本政府の要請と基地の提供と費用の分担など協力があるからこそ可能なのである。

この点を実質的に考察すると、米軍の駐留を許容していることは、指揮権の有無、米軍の出動義務の有無にかかわらず、憲法第九条第二項で禁止されている戦力の保持に該当するものといわざるをえない。結局、日本に駐留する米軍は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるをえない。
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2018年11月04日

192. 「『米軍駐留は憲法違反』と明言した伊達判決」[吉田敏弘著『検証・法治国家崩壊』より]

憲法第九条は「戦力の不保持」を謳っている。しかし日本国内に米軍基地がある。おかしいじゃないか! 米軍は紛れもなく戦力じゃないか! あってはならないはずの「戦力」が、日本国内にあるじゃないか!
その通りである。実際、東京地裁は米軍駐留について「憲法違反」の判決を出している。「伊達判決」といわれる名判決である。以下、吉田敏弘著『検証・法治国家崩壊』pp.22-24より。

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1957年、東京都砂川町(現立川市)にある米軍基地内に、数メートル入ったデモの参加者二三人が逮捕され、そのうち七人が起訴されるという「砂川事件」が起こりました。
 その裁判を担当した東京地裁刑事第十三部(裁判長伊達秋雄、裁判官清水春三、裁判官松本一郎)は、判決のなかで「米軍駐留は憲法第九条違反」という前例のない判断を示しました。その判決の要点は、以下のとおりです。

@憲法第九条は、日本が戦争をする権利も、戦力をもつことも禁じている。
一方、日米安保条約では、日本に駐留する米軍は、日本防衛のためだけでなく、極東における平和と安全の維持のため、戦略上必要と判断したら日本国外にも出動できるとしている。その場合、日本が提供した基地は米軍の軍事行動のために使用される。その結果、日本が直接関係のない武力紛争にまきこまれ、戦争の被害が日本におよぶおそれもある。
 したがって、安保条約によりこのような危険をもたらす可能性をもつ米軍駐留を許した日本政府の行為は、『政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に反するのではないか。

 Aそうした危険性をもつ米軍の駐留は、日本政府が要請し、それをアメリカ政府が承諾した結果であり、つまり日本政府の行為によるものだといえる。米軍の駐留は、日本政府の要請と、基地の提供と費用の分担などの協力があるからこそ可能なのである。
 この点を考えると、米軍の駐留を許していることは、指揮権の有無、米軍の出動義務の有無にかかわらず、憲法第九条第二項で禁止されている戦力の保持に該当するものといわざるをえない。結局、日本に駐留する米軍は憲法上その存在を許すべきではないといえる。

 B刑事特別法は、正当な理由のない基地内への立ち入りに対し、一年以下の懲役または二〇〇〇円以下の罰金もしくは科料を課している。それは軽犯罪法の規定よりもとくに重い。しかし、米軍の日本駐留が憲法第九条第二項に違反している以上、国民に対し軽犯罪法の規定よりもとくに重い刑罰をあたえる刑事特別法の規定は、どんな人でも適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三一条〔適正手続きの保障〕に違反しており、無効だ。したがって、全員無罪である」

 判決当日の新聞各紙勇敢の一面には、「米軍駐留は憲法違反、砂川基地立ち入り、全員に無罪判決」などの大きな見出しが、かかげられました。この画期的な判決はのちに、伊達秋雄裁判長の名前をとって、「伊達判決」と呼ばれるようになります。
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2018年10月28日

191.日米関係さもあらん(8)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

歴史にもしもは無いのだが、もしも朝鮮戦争が勃発しなければ、マッカーサーは解任されなかっただろうし、岸信介にしてもそのまま獄中にいたであろう。冷戦と朝鮮戦争が日本の運命を大きく変えたことになる。

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56. マッカーサーは朝鮮戦争に関する意見の衝突で、1951年4月11日にトルーマン大統領によって解任されました。それは、マッカーサーが進めた、
@非軍事化 
A戦争犯罪人の処分 
B民主化の最優先
を軸とする日本占領政策の終わりを意味していました。
 
57. マッカーサーに代わって連合国最高司令官となったリッジウェイは、政治家や将校たちに出されていた公職追放令をゆるめ、25万人以上の追放解除を行ないました。鳩山一郎や石橋湛山、岸信介といった著名な政治家たちが、このとき政治的権利を回復しました。1952年10月に行なわれた占領終結後、最初の国会議員選挙では、衆議院の議席の42%を追放解除者が占めることになります。
 
58. マッカーサーが解任されてから5カ月後の1951年9月8日、日本はサンフランシスコで講和条約(平和条約)と日米安保条約に調印しました。講和条約はサンフランシスコの華麗なオペラ・ハウスで、48カ国の代表が調印して結ばれました。では、日米安保条約はどうだったでしょう。米国側は、アチソン、ダレス、ワイリー、ブリッジスの4人が署名しています。では日本はと見ると、吉田首相ひとりです。
 
59. 「印象的な事実は、安保条約調印の場が、同じサンフランシスコでも、華麗なオペラ・ハウスではなく、米第六軍司令部の下士官クラブであったことである。これはいかにも印象的ではないか。下士官クラブで安保条約の調印式をあげたことは、吉田一行と日本国民に『敗戦国』としての身のほどを知らせるにはうってつけだったと考えたら思いすごしだろうか」(『寺崎太郎外交自伝』私家版)。 注;寺崎太郎;日米開戦前の外務省アメリカ局長。1946年に外務次官になった。
 
60. 「周知のように、日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約〔講和条約〕− 安保条約 − 行政協定の順序でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明らかになっている」「つまり本能寺〔本当の目的〕は最後の行政協定にこそあったのだ」(寺崎太郎の記述より)
 
61. 旧安保条約の最大の問題は、旧安保条約には米軍の日本駐留のあり方についての取り決めが、なにも書かれていないということです。それは「条約」が国会での審議や批准を必要とするのに対し、政府間の「協定」ではそれが必要ないため、都合の悪い取り決めは全部この行政協定のほうにいれてしまったからなのです。
 
62. 日米安全保障条約(日米安保条約);
1951年9月8日調印、翌年4月28日に発効した。日本全土における米軍基地の自由使用を認める一方、米国は日本の防衛義務は負わないとするきわめて不平等な条約だった。1960年に岸政権のもとで改定されたが、形式としては改定ではなく、新条約の締結という形をとったため、両者を区別するときは、それぞれ「旧安保条約」[新安保条約]などという。
 
63. 日米行政協定;
日米安保条約にもとづいて駐留する在日米軍と米兵他の法的地位を定めた協定。1952年2月28日調印、同年4月28日に発効した。占領中にしようしていた基地の継続使用や、米軍関係者への治外法権、密約として合意された有事での「統一指揮権(日本軍が米軍の指揮下に入る)」など、占領中の米軍の権利をほぼすべて認めるものだった。新安保条約の締結と同時に「日米地位協定」と名称を変えたが、「米軍が治外法権をもち、日本国内で基地を自由使用する」という実態はほとんど変わっていない。


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2018年10月21日

190. 米軍駐留を正当化する「ハワード理論」

第二次大戦の終結から4年後、アメリカは日本の占領政策を大きく転換し、日本に軍事力をもたせて、それをみずからの指揮のもとで使いたいと考えるようになりました。アジアの民族運動をふせぐために米軍が出動するときは、日本の軍事力を利用したいというのがアメリカの本音でした。

けれども日本には、できたばかりの平和憲法があります。その矛盾をいったい、どうやって正当化すればいいのか。アメリカ政府内では1949年から、すでにそのための話しあいが始まっていました。

アメリカがもっとも重視したのは、米軍駐留の正当化をはかることでした。そのためにハワード国務長官特別補佐官は苦心して、米軍駐留がなぜ日本の憲法に違反しないかという「理論」を考え出します。その理論とは、「禁止しているのは日本の戦力であって、外国の戦力はいいのだ」というものです。

しかし、憲法9条2項はどのように読んでも、日本は戦力をもたないと定めています。ハワードの理屈は、とうてい通用するものではありません。

ところが日本では、このハワードの「理論」をそのまま採用する形で、最高裁判所が1959年12月16日に「米軍駐留は憲法違反ではない」とする判決(「砂川裁判・最高裁判決」)を出しているのです。その判決の理由は、憲法が「保持しない」と定めている軍隊には外国軍隊は含まれないというものでした。

もちろん憲法9条2項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と、あらゆる戦力がダメだと書かれています。「外国軍隊を除く」とは書かれていません。

[末浪靖司著『「日米指揮権密約」の研究』(2017)創元社より]

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2018年10月14日

189.朝鮮戦争と「警察予備隊」

自衛隊の前身は「警察予備隊」であるが、「警察」とつくからには、おまわりさんの集団といったイメージをいだく向きもあろうかと思う。しかしその実態は事実上の軍隊であり、その背景には当時の米軍の「日本の再軍備」という暗黙の計画があったのだ。「朝鮮戦争は、米軍が日本軍を復活させ、その指揮権を握って海外の戦場で使うという軍部の計画を実行するための、大きなきっかけとなった」という。以下、末浪靖司さんの『「日米指揮権密約」の研究』より。
 
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朝鮮戦争の開戦を受けて、マッカーサーは吉田首相に警察予備隊の創設を命じ、はっきり再軍備へと方針転換しました。
 
マッカーサーが吉田内閣に警察予備隊をつくらせたのは、米軍基地を守らせるためでした。朝鮮戦争が始まると、日本を占領していた米軍は、ほとんど朝鮮半島に出動することになりました。そのため、アメリカは急遽、日本に「警察予備隊」という名の、実態は武装した軍隊をつくらせて、再軍備をスタートさせることになったのです。しかし、それはあくまで「警察力の延長」であるという建前が政府によってとられていたため、完全な憲法違反がおこなわれつつあることは、国民の目からは隠されたままでした。

マッカーサーが警察予備隊を創設した目的は、米軍が朝鮮半島に出動したあとの日本国内の治安を維持するためとされていましたが、実際は米軍がいなくなったあとの横須賀、横田、佐世保などの重要な米軍基地に日本人を配備し、それらの基地を守らせるためでした。

また、旧日本軍がすでに解体されたなかで、周辺海域に残る大量の機雷を掃海するために維持されていた海上保安庁の掃海部隊は、このとき米軍の命令を受け、朝鮮海域に出動し、機雷に接触し、死者まで出しています。

朝鮮戦争は、米軍が「日本軍」を復活させ、その指揮権を握って海外の戦場で使うという軍部の計画を実行するための、大きなきっかけとなりました。

[末浪靖司著『「日米指揮権密約」の研究』(2017)創元社pp.97-100]

 
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2018年10月07日

188.日米関係さもあらん(7)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

自衛隊の結成はアメリカ軍部の事情による。自衛隊の前身は「警察予備隊」であるが、この警察予備隊は1950年の朝鮮戦争勃発直後に結成されている。結成を求めたのはマッカーサーではなく、当時のアメリカ軍部とトルーマン大統領である。マッカーサーは再軍備に反対していたのだ。結局、マッカーサーがアメリカ軍部側に負ける形で、75000人規模の警察予備隊つまり今の自衛隊のもとになる部隊が結成された。完全にアメリカ軍側の都合である。日本から朝鮮戦争へ出動した米軍兵の数が75000人。これが何を意味するか、明々白々であろう。

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52. 朝鮮戦争の勃発で、米国の対日政策は根本から変わりました。日本の経済を自立させなければならない。軍隊も、もたせなければならない。そのためには経済面でも軍事面でも、優秀な人間が必要だ。追放されている人びとを日本社会に復帰させなければならない・・・。こうして米国の対日政策は180度転換することになったのです。国際情勢が変われば、米国の対日政策も劇的に変わるのです。

53. 朝鮮戦争で日本経済が立ち直りました。日本は第二次世界大戦によって経済的な打撃をうけました。とくに食糧事情が深刻でした。こうしたなか、朝鮮戦争が起こりました。米軍は戦争に必要な膨大な物資とサービスを日本で調達するようになります。これを朝鮮特需とよんでいます。こうした朝鮮特需のおかげで、1950年10月、日本の鉱工業生産は戦前を上まわるようになります。戦争が起こることによって大きな利益を得る層もあるのです。

54. 冷戦の高まりのなか、マッカーサーは日本の再軍備に反対します。マッカーサーは日本の占領は早く終わらせるべきであると考えていました。また日本の再軍備には反対の立場をとっています。占領軍の当初の目的(非軍事化)は終了しました。しかし冷戦の勃発により、将棋のコマとしての日本に新たな役割が生まれました。第一は重要性を増した在日米軍基地を今後も維持しつづけること。第二は再軍備をして米国の世界戦略の一翼をになうことです。第一の問題は米軍が占領を延長すれがいいだけの話です。なにも日本と協議する必要はありません。日本と協議する必要があるのは二番目の再軍備の問題です。しかし冷戦が始まったからといって、日本はもちろん、占領軍もすぐに「日本の再軍備」に賛成できたでしょうか。そもそも占領軍の一番の目標は、なんだったでしょう。それは日本の非軍事化です。マッカーサーはそれをもっとも重視していました。そのマッカーサーが再軍備に賛成するはずがありません。ここから日本をめぐり、なんとか再軍備させようとするトルーマン大統領および軍部と、マッカーサーとの戦いが始まります。

55. 米軍部は日本の再軍備をあきらめることはなく、1947年3月1日には「日本防衛における米国の負担を減らす観点から、日本軍の創設は望ましい」(「統合参謀本部覚書」)という結論に達します。そして1950年6月、朝鮮戦争が起こりました。これで「トルーマン大統領+軍部」対「マッカーサー」の戦いに決着がつきます。共産主義の脅威が日本のすぐとなりの朝鮮半島で、侵略という形で起こりました。だれもが日本の軍事力強化の方向に向かったのは自然な流れでした。1950年7月8日(朝鮮戦争発生後13日目)、マッカーサーは吉田首相に次のような書簡を送っています。「日本政府に、政府直属の国家警察予備隊7万5千人と海上保安庁要員8千人の増加の権限をあたえる」。この「国家警察予備隊」という組織がのちの自衛隊です。日本の再軍備にずっと反対してきたマッカーサーが、ついにここで間接的な言い方ながら、再軍備を許可したのです7万5千人という数は、日本から朝鮮戦争へ出動した米軍の数とほぼ同じでした。
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2018年09月30日

187.日米関係さもあらん(6)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

47. 冷戦がはじまると、米国は日本をソ連からの防波堤に使おうとしました。米国の占領初期の政策で一番重要なことは、「日本がふたたび米国の脅威にならないことを確実にする」ことでした。米国は終戦直後、日本に太比して非常にきびしい経済制裁を加えました。日本がふたたび軍事大国にならないように、です。しかし、の「日本経済を低水準にとどめておく」という政策は、1948年に変更されます。それはなにも日本の政治家が米国を説得したからではありません。米国人が急に人道主義にめざめたわけでもありません。米国の世界戦略にこのとき大変化が起きていたのです。つまり、「東アジアでは将来、ソ連とのあいだで戦争が起こるかもしれない。そのときには日本の経済を、少なくとも自給自足できるレベルにまで引きあげておく必要がある」ということです。冷戦下のソ連との戦いのなかで、日本を防波堤として使うという考えが出てきたのです。「米国はその世界戦略のなかで、各国をどのように使うかをつねに考えています。米国の世界戦略が変われば、将棋のコマである日本の役割も大きく変わります」.まさにその通りのことが1948年に起こったのです。米国にとってもっとも重要な世界戦略の目的が、それまでの「日本とドイツを二度と立ち上がれないようにすること」から「ソ連に対抗すること」に変化します。そうなると、将棋のコマとしての日本のあつかいも変わってくるのです。

48. 冷戦とはいったいなんだったのか、そのなかで日本にどういう役割が期待されたかについて、考えてみる必要があります。冷戦の始まりをうけて米国では、国防省長官や元大統領といった人びとが、いっせいに共産主義の脅威に対抗するため、日本の工業力を利用すべきだという方針を打ちだします。占領当初の米国の対日政策は、
「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」というものでした。しかし「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」が米国にとっての国益だと判断すると、一気に戦略を一八〇度転換させたのです。そして戦略が変更すると、対日政策も大きく変わります。しかしこの米国本国の急激な路線転換は、それまで日本に君臨してきたマッカーサーの占領政策を完全に否定するものでした。当然、マッカーサーとトルーマン大統領および国防省との対立がはじまります。結局、朝鮮戦争をめぐってその対立は激化し、マッカーサーは解任されることになるのです。

49. 米国が「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用する」方針へ転換したことは、日本の占領政策を大きく変える結果となりました。政策だけでなく、人のあつかいも変わります。戦犯に問われた人も、ソ連との対抗上、必要とされるようになります。戦犯が釈放され、政界に復帰する動きがつづきます。つづいて朝鮮戦争が起こり、米国の対日政策の変化が確定します。米国は日本に経済力をつけさせ、その軍事力も利用しようと考えるようになりました。

50. マッカーサーは連合国最高司令官として日本に君臨しました。彼は日本の軍事力を解体することを目標としていたので、当初、日本の軍事力の復活はまったく考えていませんでした。

51. 冷戦がなければ、そして朝鮮戦争が起きなければ、米軍はかなり早い段階で日本から撤退していたはずだったのです。占領初期の政策は「日本が二度と米国の脅威にならないようにする」、そして「懲罰的な態度でのぞむ」ということでした。しかし冷戦が始まった結果、日本に期待されることは「経済的・政治的安定と軍事能力を強化し、米国の安全保障に貢献する」こととなったのです。こうして米国の対日政策は一八〇度変わりました。それをさらに決定づけたのが朝鮮戦争だったのです。
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2018年09月23日

186.日米関係さもあらん(5)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

41. 占領期から1955年に自民党ができるまでの戦後史は、ゴチャゴチャしていてわかりにくいという声を聞きます。しかし、外務大臣という側面から光をあてると、実にわかりやすいのです。まず1945年8月17日に外務大臣となった重光葵が、9月2日、降伏文書にサインしたあと、2週間後に更迭されます。代わって外務大臣になった吉田茂が1年8カ月、つづいて芦田が1年4カ月、ふたたび吉田が3年半、その子分だった岡崎が2年半、そのあとふたたび重光が2年。これが敗戦から11年間の日本の外務大臣です。きれいに「自主(重光)」「追随(吉田)」「自主(芦田)」「追随(吉田・岡崎)」「自主(重光)」と入れかわっていることがわかります。その間、吉田と芦田はすぐに首相を兼務するようになり、重光も2度目は副総理を兼務しています。ある意味、首相よりも、米国と直接接する外務大臣が重要な時代です。圧倒的に強い「米国からの圧力」を前に、「自主路線」と「追随路線」が激しくせめぎあっていた。それが敗戦後約10年間の日本の歴史です。ただ在任期間を見るとわかるように、吉田茂の追随路線がやはり圧倒しています。

42. 私たちはよく「米国(アメリカ)は」と口にします。しかしこの「米国」はとても複雑です。それが同じ「米国政府」をさしている場合でも、その中で国務省対国防省、国務省対CIAなど、さまざまな勢力の対立があるからです。占領時代もそうでした。ライシャワーが、次のようにのべています。「(当時)GHQの内部には、ふたつの流れがありました。ひとつは情報担当部局〔G2〕で、ここは軍事試行が強いので早くから冷戦的態度をとりました。一方、GHQ民政部門〔GS〕の関心は日本の戦後改革でした」(『日本への自叙伝』)。こうした米国内部の対立に、日本側の勢力がそれぞれ加わります。ひとくちに「対米追随」といっても、いくつかの勢力にわかれるのです。

43. 検察は米国と密接な関係を持っています。とくに特捜部はGHQの管理下でスタートした「隠匿退蔵物資事件捜査部」を前身としています。その任務は、敗戦直後に旧日本軍関係者が隠した「お宝」を摘発し、GHQに差し出すことでした。

44. 米国の情報部門が日本の検察を使ってしかける。これを利用して新聞が特定政治家を叩き、首相を失脚させるというパターンが存在することは、昭電事件からもあきらかです。
@米国の一部の勢力が、日本の首相の政策に不満をもつ
A日本の検察が汚職などの犯罪捜査を、首相本人ないし近辺のものに行う。有罪にならなくてもよい。一時的な政治上の失脚があれば目的が達せられる
Bマスコミがその汚職事件を大々的にとりあげ、政治的、社会的失脚に追いこむ
C次の首相と連携して、失脚させた首相が復活する可能性を消す

45. 特捜部は検察の一部門で、東京・大阪・名古屋にだけ置かれています。政治家の汚職は大型脱税事件、贈収賄事件など、政治的・社会的に影響の大きい事件だけをあつかう特別な組織です。一般的な刑事事件は、警察が捜査・摘発し、検察が起訴しますが、特捜部が手がける事件は、最初から自分たちが捜査・摘発し、起訴する場合が多い。日本のような一審有罪率99.9%の国で、捜査・摘発と起訴を同じ組織が行なうわけですから、特捜部がその気になれば、どんな事件だって作ることができます。

46. 歴史的に特捜部は米国と深い関係をもっています。まず1947年、東京地裁特捜部が占領下でGHQのために働く特捜機関として発足します。敗戦直後は、それまで旧日本軍が貯蔵していた莫大な資材が、さまざまな形で横流しされ、行方不明になっていました。1945年10月にはGHQ自身が、東京の道井信託の地下倉庫からダイヤモンドをなんと16万カラットも接収しています。そうした不当に隠された物質を探しだして、GHQの管理下に置くことを目的に設置された「隠匿退蔵物資事件捜査部」が、東京地検特捜部の前身です。「GHQの管理下に置くことを目的にする」、つまり、GHQのために「お宝」を見つけ出す特別の捜査機関、それが東京地検特捜部の前身だったのです。
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2018年09月16日

185.日米地位協定を考える(2)

1950年代に起こったロングプリー事件。これは、都内から西武池袋線に乗った音大生が、米軍基地内の米兵から狙撃され、車内で死亡したという驚くべき事件であった。

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1958年9月7日午後2時ごろ、米軍ジョンソン基地を横切る線路上を西武池袋線下り電車が走行中、埼玉県入間市の稲荷山公園付近で同基地に所属するピーター・E・ロングプリー三等航空兵(19歳)が車両に向けてカービン銃を発射し、基地内へバンド演奏のアルバイトに行く途中だった武蔵野音楽大生・宮村祥之(21歳)が死亡した。発砲の動機についてロングプリーは『カラ撃ちの練習をしたところ実弾が入っているのを忘れて射ってしまった』とのべた。埼玉県警と狭山署はロングプリーを重過失致死罪で浦和地検に書類送検した。(「埼玉新聞」他からまとめた事件の概略)

警備中の米兵は実弾を装填しないのが規則ですので、カラ射ちの練習をしたら実弾が入っていたというのはおかしい。おそらく走行中の列車に向けて、遊びで実弾の射撃練習をしていたのでしょう。さすがに日本の世論が沸騰したため、これを公務中とすることはできず、形だけの裁判が行われました。しかし浦和地裁の下した判決は金庫10カ月という信じられないほど軽いものでした。米軍関係者については基本的に裁判権を放棄するという密約があったからです。
[前泊博盛著『日米地位協定入門』(2013)創元社pp.146-148]


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2018年09月09日

184.日米地位協定を考える(1)

日米地位協定と憲法は両立しない。筆者が憲法問題を考えるようになって痛感したことのひとつである。日米地位協定が憲法の邪魔をしているのだ。

憲法は国民のものである。宝といっていい。それほど憲法の価値は高い。その宝が日米地位協定によってないがしろにされている。看過し得ないゆゆしき問題である。

その日米地位協定の抜本的改定を国に求める提言が、全国知事会で全会一致で採択された。2018年7月27日に札幌で開かれた全国知事会でのことである。筆者はこれを2018年8月8日付の東京新聞で知ったのだが、はたして他紙はこの重大ニュースを伝えたのだろうか。伝えなかったとしたらその理由は何なのか。疑問に思う。

日米地位協定の見直しを国に求めるのは、全国知事会にとどまらず国民全体でやるべきだ。これは次世代に対する責任でもある。そのためには、この協定のもとでいったい何が起こっているのか、そのすべてを白日の下にさらさらす必要がある。そのほんの一部を紹介すべく、以下に『日米地位協定入門』から「不備だらけ協定」と「法の空白地帯」を引く。
 
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沖縄県内の米軍基地では、かつてベトナム戦争で使用され、奇形児の誕生など深刻な健康被害をあたえた「枯葉剤」が、1960年代には軍事演習で日常的に使用されていたことが最近になってあきらかになりました。米軍の退役軍人が枯葉剤を使用したために病気になったとして、米国政府を訴えたことで表面化したのです。

そのほかにも、変換された米軍基地の跡地から水銀やヒ素、PCBなどの有害物質が大量に検出されたり、有害物質がドラム缶につめられてうめられているのが発見されたりしています。

PCBについては、嘉手納基地内に掘られた池に無造作に保管されていることが基地従業員の通報でわかりましたが、米軍に問い合わせると「そんな事実はない」と否定されてしまいました。結局、あとになって米軍がそのPCB保管池を埋め立てて証拠隠滅をはかっていたことが判明しています。

そのPCBがどうなったか。その後の対応を聞くと驚きます。土中に埋められたPCBは放置しておけば、地下水の深刻な汚染を引き起こすことになります。嘉手納基地は沖縄本島でも地下水が豊富なところで、かつて沖縄が本土に復帰する前は、沖縄本島の水道水の二割を嘉手納にある数多くの井戸に頼っていたほどです。その地下水源の真上で米軍は、ただ土を掘ってつくった池におおいもかけず、PCB廃油を流し込んで保管(廃棄)していたのですからたまりません。

基地従業員の告発を受けた沖縄県や周辺自治体が「基地内」への立ち入り調査を申し入れました。しかし、米軍は地位協定上の「基地の管理権」をタテに立ち入り調査を拒否しました。そしてそのあいだにPCB廃油池を埋めてしまったのです。

結局、あとになって基地従業員の指摘どおりにPCB廃油池が発見され、埋め立てられた場所は掘り返され、PCBをふくんだ土ごとドラム缶に住められて処分されるはめになりました。

その処分は当然、米軍によって行われることになり、米軍はPCB入りドラム缶数百本を船に乗せて米国本国に運ぶことになりました。実際、船に乗せられたPCBドラム缶は、横浜経由で太平洋を横断して米国西海岸に到着します。ところが、ここで問題が生じました。
「有害物質を米国内にもちこんではいけない」
という米国の環境法に抵触するとして、米国内での処分が困難になったのです。米軍は仕方なく、PCB入りドラム缶を日本に持ち帰りました。有害物質が日本にもどってきたので、横浜港では日本の環境保護団体が輸送船に乗り込んで入稿をはばもうとするなど、猛烈な反対運動が起こりました。

その結果、米軍はドラム缶をまた沖縄に持ち帰ることになったようですが、そのごはどこに行ったかわかりません。最終的な処分は当時の防衛施設庁にゆだねられたと聞きます。防衛施設庁は福岡にあるPCB処理ができる民間企業に処理を委託したとの話もありましたが、不明です。

米国国内では環境法で規制されているPCBのとりあつかいや処分は、当然、日本の国内法でも規制されています。ところが、米軍基地内は地位協定によって米国の国内法は適用されず、日本の国内法も適用されないという「法の空白地帯」となっているのです。
日本の国内法が適用されないというのは、どう考えてもおかしな話です。それでは地位協定が日本国内で「法の空白地帯」を生んでいることになりますから、当然、改正をして、せめて日本国内の基地には、日本の国内法を適用して環境汚染や破壊を防止してほしいものです。
[前泊博盛著『日米地位協定入門』(2013)pp.77-79]

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