2018年09月23日

186.日米関係さもあらん(5)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

41. 占領期から1955年に自民党ができるまでの戦後史は、ゴチャゴチャしていてわかりにくいという声を聞きます。しかし、外務大臣という側面から光をあてると、実にわかりやすいのです。まず1945年8月17日に外務大臣となった重光葵が、9月2日、降伏文書にサインしたあと、2週間後に更迭されます。代わって外務大臣になった吉田茂が1年8カ月、つづいて芦田が1年4カ月、ふたたび吉田が3年半、その子分だった岡崎が2年半、そのあとふたたび重光が2年。これが敗戦から11年間の日本の外務大臣です。きれいに「自主(重光)」「追随(吉田)」「自主(芦田)」「追随(吉田・岡崎)」「自主(重光)」と入れかわっていることがわかります。その間、吉田と芦田はすぐに首相を兼務するようになり、重光も2度目は副総理を兼務しています。ある意味、首相よりも、米国と直接接する外務大臣が重要な時代です。圧倒的に強い「米国からの圧力」を前に、「自主路線」と「追随路線」が激しくせめぎあっていた。それが敗戦後約10年間の日本の歴史です。ただ在任期間を見るとわかるように、吉田茂の追随路線がやはり圧倒しています。

42. 私たちはよく「米国(アメリカ)は」と口にします。しかしこの「米国」はとても複雑です。それが同じ「米国政府」をさしている場合でも、その中で国務省対国防省、国務省対CIAなど、さまざまな勢力の対立があるからです。占領時代もそうでした。ライシャワーが、次のようにのべています。「(当時)GHQの内部には、ふたつの流れがありました。ひとつは情報担当部局〔G2〕で、ここは軍事試行が強いので早くから冷戦的態度をとりました。一方、GHQ民政部門〔GS〕の関心は日本の戦後改革でした」(『日本への自叙伝』)。こうした米国内部の対立に、日本側の勢力がそれぞれ加わります。ひとくちに「対米追随」といっても、いくつかの勢力にわかれるのです。

43. 検察は米国と密接な関係を持っています。とくに特捜部はGHQの管理下でスタートした「隠匿退蔵物資事件捜査部」を前身としています。その任務は、敗戦直後に旧日本軍関係者が隠した「お宝」を摘発し、GHQに差し出すことでした。

44. 米国の情報部門が日本の検察を使ってしかける。これを利用して新聞が特定政治家を叩き、首相を失脚させるというパターンが存在することは、昭電事件からもあきらかです。
@米国の一部の勢力が、日本の首相の政策に不満をもつ
A日本の検察が汚職などの犯罪捜査を、首相本人ないし近辺のものに行う。有罪にならなくてもよい。一時的な政治上の失脚があれば目的が達せられる
Bマスコミがその汚職事件を大々的にとりあげ、政治的、社会的失脚に追いこむ
C次の首相と連携して、失脚させた首相が復活する可能性を消す

45. 特捜部は検察の一部門で、東京・大阪・名古屋にだけ置かれています。政治家の汚職は大型脱税事件、贈収賄事件など、政治的・社会的に影響の大きい事件だけをあつかう特別な組織です。一般的な刑事事件は、警察が捜査・摘発し、検察が起訴しますが、特捜部が手がける事件は、最初から自分たちが捜査・摘発し、起訴する場合が多い。日本のような一審有罪率99.9%の国で、捜査・摘発と起訴を同じ組織が行なうわけですから、特捜部がその気になれば、どんな事件だって作ることができます。

46. 歴史的に特捜部は米国と深い関係をもっています。まず1947年、東京地裁特捜部が占領下でGHQのために働く特捜機関として発足します。
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2018年09月16日

185.日米地位協定を考える(2)

1950年代に起こったロングプリー事件。これは、都内から西武池袋線に乗った音大生が、米軍基地内の米兵から狙撃され、車内で死亡したという驚くべき事件であった。

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1958年9月7日午後2時ごろ、米軍ジョンソン基地を横切る線路上を西武池袋線下り電車が走行中、埼玉県入間市の稲荷山公園付近で同基地に所属するピーター・E・ロングプリー三等航空兵(19歳)が車両に向けてカービン銃を発射し、基地内へバンド演奏のアルバイトに行く途中だった武蔵野音楽大生・宮村祥之(21歳)が死亡した。発砲の動機についてロングプリーは『カラ撃ちの練習をしたところ実弾が入っているのを忘れて射ってしまった』とのべた。埼玉県警と狭山署はロングプリーを重過失致死罪で浦和地検に書類送検した。(「埼玉新聞」他からまとめた事件の概略)

警備中の米兵は実弾を装填しないのが規則ですので、カラ射ちの練習をしたら実弾が入っていたというのはおかしい。おそらく走行中の列車に向けて、遊びで実弾の射撃練習をしていたのでしょう。さすがに日本の世論が沸騰したため、これを公務中とすることはできず、形だけの裁判が行われました。しかし浦和地裁の下した判決は金庫10カ月という信じられないほど軽いものでした。米軍関係者については基本的に裁判権を放棄するという密約があったからです。
[前泊博盛著『日米地位協定入門』(2013)創元社pp.146-148]


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2018年09月09日

184.日米地位協定を考える(1)

日米地位協定と憲法は両立しない。筆者が憲法問題を考えるようになって痛感したことのひとつである。日米地位協定が憲法の邪魔をしているのだ。

憲法は国民のものである。宝といっていい。それほど憲法の価値は高い。その宝が日米地位協定によってないがしろにされている。看過し得ないゆゆしき問題である。

その日米地位協定の抜本的改定を国に求める提言が、全国知事会で全会一致で採択された。2018年7月27日に札幌で開かれた全国知事会でのことである。筆者はこれを2018年8月8日付の東京新聞で知ったのだが、はたして他紙はこの重大ニュースを伝えたのだろうか。伝えなかったとしたらその理由は何なのか。疑問に思う。

日米地位協定の見直しを国に求めるのは、全国知事会にとどまらず国民全体でやるべきだ。これは次世代に対する責任でもある。そのためには、この協定のもとでいったい何が起こっているのか、そのすべてを白日の下にさらさらす必要がある。そのほんの一部を紹介すべく、以下に『日米地位協定入門』から「不備だらけ協定」と「法の空白地帯」を引く。
 
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沖縄県内の米軍基地では、かつてベトナム戦争で使用され、奇形児の誕生など深刻な健康被害をあたえた「枯葉剤」が、1960年代には軍事演習で日常的に使用されていたことが最近になってあきらかになりました。米軍の退役軍人が枯葉剤を使用したために病気になったとして、米国政府を訴えたことで表面化したのです。

そのほかにも、変換された米軍基地の跡地から水銀やヒ素、PCBなどの有害物質が大量に検出されたり、有害物質がドラム缶につめられてうめられているのが発見されたりしています。

PCBについては、嘉手納基地内に掘られた池に無造作に保管されていることが基地従業員の通報でわかりましたが、米軍に問い合わせると「そんな事実はない」と否定されてしまいました。結局、あとになって米軍がそのPCB保管池を埋め立てて証拠隠滅をはかっていたことが判明しています。

そのPCBがどうなったか。その後の対応を聞くと驚きます。土中に埋められたPCBは放置しておけば、地下水の深刻な汚染を引き起こすことになります。嘉手納基地は沖縄本島でも地下水が豊富なところで、かつて沖縄が本土に復帰する前は、沖縄本島の水道水の二割を嘉手納にある数多くの井戸に頼っていたほどです。その地下水源の真上で米軍は、ただ土を掘ってつくった池におおいもかけず、PCB廃油を流し込んで保管(廃棄)していたのですからたまりません。

基地従業員の告発を受けた沖縄県や周辺自治体が「基地内」への立ち入り調査を申し入れました。しかし、米軍は地位協定上の「基地の管理権」をタテに立ち入り調査を拒否しました。そしてそのあいだにPCB廃油池を埋めてしまったのです。

結局、あとになって基地従業員の指摘どおりにPCB廃油池が発見され、埋め立てられた場所は掘り返され、PCBをふくんだ土ごとドラム缶に住められて処分されるはめになりました。

その処分は当然、米軍によって行われることになり、米軍はPCB入りドラム缶数百本を船に乗せて米国本国に運ぶことになりました。実際、船に乗せられたPCBドラム缶は、横浜経由で太平洋を横断して米国西海岸に到着します。ところが、ここで問題が生じました。
「有害物質を米国内にもちこんではいけない」
という米国の環境法に抵触するとして、米国内での処分が困難になったのです。米軍は仕方なく、PCB入りドラム缶を日本に持ち帰りました。有害物質が日本にもどってきたので、横浜港では日本の環境保護団体が輸送船に乗り込んで入稿をはばもうとするなど、猛烈な反対運動が起こりました。

その結果、米軍はドラム缶をまた沖縄に持ち帰ることになったようですが、そのごはどこに行ったかわかりません。最終的な処分は当時の防衛施設庁にゆだねられたと聞きます。防衛施設庁は福岡にあるPCB処理ができる民間企業に処理を委託したとの話もありましたが、不明です。

米国国内では環境法で規制されているPCBのとりあつかいや処分は、当然、日本の国内法でも規制されています。ところが、米軍基地内は地位協定によって米国の国内法は適用されず、日本の国内法も適用されないという「法の空白地帯」となっているのです。
日本の国内法が適用されないというのは、どう考えてもおかしな話です。それでは地位協定が日本国内で「法の空白地帯」を生んでいることになりますから、当然、改正をして、せめて日本国内の基地には、日本の国内法を適用して環境汚染や破壊を防止してほしいものです。
[前泊博盛著『日米地位協定入門』(2013)pp.77-79]

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2018年09月02日

183.日米関係さもあらん(4)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

32. 日本は、戦前は軍人をボスとする奴隷国で、そこから戦後は占領軍((GHQ)をボスとする奴隷国に変わっただけだと見られていました。

33. トルーマン大統領は次のように書いています。「マサチューセッツ工科大学の総長コンプトン博士は、〔日本から〕帰国したあとホワイトハウスに来て私に説明した。かれにまとめてもらった覚書は次のとおりである。日本は事実上、軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であった。

34. 日本人指導者が米国人に従属する構図は、米国人からはよく見えます。しかし日本の一般の人たちにはその姿が見えないのです。

35. 吉田首相は、占領下の首相に実にふさわしい人物でした。ある意味で占領中の彼の「対米追随路線」は、しかたなかった面もあるでしょう。問題は彼が1954年の講話条約以降も首相の座に居すわりつづけたことです。その結果、占領中の対米追随路線が独立後もまったくかわらず継続され、むしろ美化されて、ついには戦後60年以上もつづくことになってしまった。ここが日本最大の悲劇なのです。

36. 日本には保守本流という言葉があります。一般に「吉田茂がひきいた旧自由党系の流れを汲んだ、池田勇人、佐藤栄作などの官僚出身の政治家(いわゆる吉田学校)を中心とした勢力」とされています。この保守本流こそは戦後の日本政治そのものであり、その精神は今日までつづいています。その根本は「従属」なのです。

37. 天皇には明白な戦争責任がある。それなのになぜ連合国が最初から天皇を裁かないことに決めているかといえば、それは「連合国の利益」のためだからです。

38. 占領時代、日本は米軍駐留経費として大変な額を支払っています。このとき米国に減額を求めて追放されたのが石橋湛山で、米国のいうとおりにしたのが吉田茂でした。

39. 日本は敗戦後、大変な経済困難にあります。このなかで、6年間で約5000億円、国家予算の2割から3割を米軍の経費にあてているのです。ちょっと信じられないような金額です。「占領下だから文句をいってもしょうがない。なまじっか正論をはいて米国からにらまれたら大変だ」というグループがいます。もちろん吉田茂が中心です。一方、「自分たちのほうが正論である。したがって、いうべきことはいう」というグループがいます。第一次吉田内閣に大蔵大臣として入閣し、のちに首相となる石橋湛山のグループです。石橋湛山は、GHQによって1947年5月16日、公職追放されてしまいます。石橋の側近だった石田博英は次のように書いています。「石橋蔵相が力を入れた問題に終戦処理費の削減がある。当時は国民のなかに餓死者が出るという窮乏の時代にもかかわらず、進駐軍の請求のなかに、ゴルフ場、特別列車の運転、はては花や金魚の注文書まで含まれていた。総額は60億ドルになると記憶しているが、石橋蔵相はあらゆる手をつくして、それを削減した」。

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2018年08月26日

182.平成最後の戦没者追悼式にて

こと憲法に関し、このお2人が正反対のお考えであることを疑う人は皆無だろう。陛下は日本国憲法を「守るべき大切なもの」と考えておられる。一方、現首相はこの憲法に対し「みっともない憲法」とすら言い放ったことがある。

かの玉音放送から73年となる8月15日、日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた。2015年(いわゆる戦後70年)以来くり返されてきた、陛下の「深い反省」という表現は今回も聞かれた。一方、安倍首相が第二次政権発足後から使わずにきた「加害と反省」の表現は、今回もまた聞かれずじまいであった。

平成最後の天皇陛下の言葉、ならびに安倍総理の式辞は以下の通り。

■天皇陛下の追悼のお言葉
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

■安倍総理の式辞
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
 苛烈を極めた先の大戦において、祖国を想い、家族を案じつつ、戦場に斃れた御霊。戦禍に遭い、あるいは戦後、遠い異郷の地で亡くなった御霊。いまその御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
 未だ帰還を果たしていない、多くの御遺骨のことも、脳裏から離れることはありません。一日も早く故郷に戻られるよう、全力を尽くして参ります。
 戦後、我が国は、平和を重んじる国として、ただひたすらに、歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため、力を尽くしてまいりました。戦争の惨禍を二度と繰り返さない、歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この決然たる誓いを貫いて参ります。
 争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する。そのことに不断の努力を重ねて参ります。今を生きる世代、明日を生きる世代のため、国の未来を切り拓いて参ります。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。


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2018年08月19日

181.平成最後の長崎平和宣言(全文)

2018年8月9日。田上富久長崎市長は、いまだ核兵器禁止条約に署名しない日本政府に訴えた。「日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます」。以下はこの日に田上市長が読み上げた、平成最後の長崎平和宣言である。

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73年前の今日、8月9日午前11時2分。真夏の空にさく裂した一発の原子爆弾により、長崎の街は無残な姿に変わり果てました。人も動物も草も木も、生きとし生けるものすべてが焼き尽くされ、廃墟(はいきょ)と化した街にはおびただしい数の死体が散乱し、川には水を求めて力尽きたたくさんの死体が浮き沈みしながら河口にまで達しました。15万人が死傷し、なんとか生き延びた人々も心と体に深い傷を負い、今も放射線の後障害に苦しみ続けています。

原爆は、人間が人間らしく生きる尊厳を容赦なく奪い去る残酷な兵器なのです。

1946年、創設されたばかりの国際連合は、核兵器など大量破壊兵器の廃絶を国連総会決議第1号としました。同じ年に公布された日本国憲法は、平和主義を揺るぎない柱の一つに据えました。広島・長崎が体験した原爆の惨禍とそれをもたらした戦争を、二度と繰り返さないという強い決意を示し、その実現を未来に託したのです。

昨年、この決意を実現しようと訴え続けた国々と被爆者をはじめとする多くの人々の努力が実り、国連で核兵器禁止条約が採択されました。そして、条約の採択に大きな貢献をした核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞しました。この二つの出来事は、地球上の多くの人々が、核兵器のない世界の実現を求め続けている証です。

しかし、第二次世界大戦終結から73年がたった今も、世界には14450発の核弾頭が存在しています。しかも、核兵器は必要だと平然と主張し、核兵器を使って軍事力を強化しようとする動きが再び強まっていることに、被爆地は強い懸念を持っています。

核兵器を持つ国々と核の傘に依存している国々のリーダーに訴えます。国連総会決議第1号で核兵器の廃絶を目標とした決意を忘れないでください。そして50年前に核不拡散条約(NPT)で交わした「核軍縮に誠実に取り組む」という世界との約束を果たしてください。人類がもう一度被爆者を生む過ちを犯してしまう前に、核兵器に頼らない安全保障政策に転換することを強く求めます。

そして世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国の政府と国会に条約の署名と批准を求めてください。

日本政府は、核兵器禁止条約に署名しない立場をとっています。それに対して今、300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます。

今、朝鮮半島では非核化と平和に向けた新しい動きが生まれつつあります。南北首脳による「板門店宣言」や初めての米朝首脳会談を起点として、粘り強い外交によって、後戻りすることのない非核化が実現することを、被爆地は大きな期待を持って見守っています。日本政府には、この絶好の機会を生かし、日本と朝鮮半島全体を非核化する「北東アジア非核兵器地帯」の実現に向けた努力を求めます。

長崎の核兵器廃絶運動を長年牽引(けんいん)してきた二人の被爆者が、昨年、相次いで亡くなりました。その一人の土山秀夫さんは、核兵器に頼ろうとする国々のリーダーに対し、こう述べています。「あなた方が核兵器を所有し、またこれから保有しようとすることは、何の自慢にもならない。それどころか恥ずべき人道に対する犯罪の加担者となりかねないことを知るべきである」。もう一人の被爆者、谷口稜曄(すみてる)さんはこう述べました。「核兵器と人類は共存できないのです。こんな苦しみは、もう私たちだけでたくさんです。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません」。

二人は、戦争や被爆の体験がない人たちが道を間違えてしまうことを強く心配していました。二人がいなくなった今、改めて「戦争をしない」という日本国憲法に込められた思いを次世代に引き継がなければならないと思います。

平和な世界の実現に向けて、私たち一人ひとりに出来ることはたくさんあります。

被爆地を訪れ、核兵器の怖さと歴史を知ることはその一つです。自分のまちの戦争体験を聴くことも大切なことです。体験は共有できなくても、平和への思いは共有できます。

長崎で生まれた核兵器廃絶一万人署名活動は、高校生たちの発案で始まりました。若い世代の発想と行動力は新しい活動を生み出す力を持っています。

折り鶴を折って被爆地に送り続けている人もいます。文化や風習の異なる国の人たちと交流することで、相互理解を深めることも平和につながります。自分の好きな音楽やスポーツを通して平和への思いを表現することもできます。市民社会こそ平和を生む基盤です。「戦争の文化」ではなく「平和の文化」を、市民社会の力で世界中に広げていきましょう。

東日本大震災の原発事故から7年が経過した今も、放射線の影響は福島の皆さんを苦しめ続けています。長崎は、復興に向け努力されている福島の皆さんを引き続き応援していきます。

被爆者の平均年齢は82歳を超えました。日本政府には、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、今も被爆者と認定されていない「被爆体験者」の一日も早い救済を求めます。

原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界と恒久平和の実現のため、世界の皆さんとともに力を尽くし続けることをここに宣言します。
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posted by Lily at 15:33 | 政治と憲法
2018年08月12日

180.平成最後の広島平和宣言(全文)

沖縄の翁長知事が8月8日に急逝した。翁長氏による 6月23日の平和宣言は、平成最後の沖縄平和宣言であると同時に、氏の魂をふりしぼった最期のメッセージでもあった。氏の平和宣言をこのブログ(資料編)に収めたところであるが(174.ご参照)、あわせて平成最後の広島平和宣言、そして長崎平和宣言を収録しておくべきだと考える次第である。まず、こちら広島平和宣言である。

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73年前、きょうと同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました。皆さん、あなたや大切な家族がそこにいたらと想像しながら聞いてください。8時15分、目もくらむ一瞬の閃光(せんこう)。セ氏100万度を超える火の玉からの強烈な放射線と熱線、そして猛烈な爆風。立ち昇ったきのこ雲の下で何の罪もない多くの命が奪われ、街は破壊し尽くされました。「熱いよう!痛いよう!」つぶれた家の下から母親に助けを求め叫ぶ子どもの声。「水を、水を下さい!」息絶え絶えのうめき声、うなり声。人が焦げる臭気の中、赤い肉をむき出しにして亡霊のごとくさまよう人々。随所で降った黒い雨。脳裏に焼きついた地獄絵図と放射線障害は、生き延びた被爆者の心身をむしばみ続け、今なお苦悩の根源となっています。

世界にいまだ1万4000発を超える核兵器がある中、意図的であれ偶発的であれ、核兵器がさく裂したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。

被爆者の訴えは、核兵器の恐ろしさを熟知し、それを手にしたいという誘惑を断ち切るための警鐘です。年々被爆者の数が減少する中、その声に耳を傾けることが一層重要になっています。20歳だった被爆者は「核兵器が使われたなら、生あるもの全て死滅し、美しい地球は廃虚と化すでしょう。世界の指導者は被爆地に集い、その惨状に触れ、核兵器廃絶に向かう道筋だけでもつけてもらいたい。核廃絶ができるような万物の霊長たる人間であってほしい」と訴え、命を大切にし、地球の破局を避けるため、為政者に対し「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かうよう求めています。

昨年、核兵器禁止条約の成立に貢献したICANがノーベル平和賞を受賞し、被爆者の思いが世界に広まりつつあります。その一方で、今世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められるなど、各国間に東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況にあります。

同じく20歳だった別の被爆者は訴えます。「あのような惨事が二度と世界に起こらないことを願う。過去の事だとして忘却や風化させてしまうことがあっては絶対にならない。人類の英知を傾けることで地球が平和に満ちた場所となることを切に願う」。人類は歴史を忘れ、あるいは直視することをやめたとき、再び重大な過ちを犯してしまいます。だからこそ私たちは「ヒロシマ」を「継続」して語り伝えなければなりません。核兵器の廃絶に向けた取り組みが、各国の為政者の「理性」に基づく行動によって「継続」するようにしなければなりません。

核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核拡散防止条約)に義務付けられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取り組みを進めていただきたい。

私たち市民社会は、朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって平和裏に進むことを心から希望しています。為政者が勇気を持って行動するために、市民社会は多様性を尊重しながら互いに信頼関係を醸成し、核兵器の廃絶を人類共通の価値観にしていかなければなりません。世界の7600を超える都市で構成する平和首長会議は、そのための環境づくりに力を注ぎます。

日本政府には、核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

本日、私たちは思いを新たに、原爆犠牲者のみ霊に衷心より哀悼の誠をささげ、被爆地長崎、そして世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。
posted by Lily at 13:34 | 政治と憲法
2018年08月05日

179.日米関係さもあらん(3)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

25. 第二次世界大戦の日本においても、東京裁判にかけられるところまではいかなくても、職を奪われた人たちが大勢いました。まず軍国主義に関与した人物として、1946年1月に約6千名が公職から追放されました。ついで1947年1月から48年8月までのあいだに、政党・経済界・報道機関などの要職についていた人たちが約19万名追放されています。当時の雰囲気を、内務省で公職追放令を創る作業にあたっていた後藤田正晴(のちに警察庁長官、官房長官などを歴任)は、次のように書いています。「みんな自分だけは解除してくれと頼みに来る。見るも無残だな。えらい人が陳情にくるんだ。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと〔思ったものだ〕」(『情と理―後藤田正晴回顧録』講談社)。こうした状況のなか、なんとか米国に追従しようとする動きがうまれてくるのは当然かもしれません。

26. 戦後の日本外交における「自主路線」のシンボルが重光葵です。「対米追随路線」のシンボルが吉田茂です。そして重光は当然のように追放されます。重光外相は、降伏文書に署名した9月2日のわずか2週間後、9月17日に外務大臣を辞任させられています。「日本の国益を堂々と主張する」。米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。求められるのは「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう外務大臣です。それが吉田茂でした。重光が辞任した後、次の外務大臣は吉田茂になります。戦後の日本外交の歴史において「自主路線」が「対米追随路線」にとって代わられる最初の例です。

27. 吉田茂は占領期・占領後を通じて、外相、首相と重要な役職を歴任し、戦後日本の方向を決めた人物です。さらに吉田の政策はその後、自民党の政策となり、50年以上継続します。

28. 占領初期、米国は日本経済を徹底的に破壊します。現在の私たちが常識としているような「寛容な占領」だったわけでは、まったくありません。その方針が変わるのは冷戦が始まり、日本をソ連との戦争に利用しようと考えるようになってからのことなのです。吉田首相が占領軍とやりあったから、戦後の経済復興があったわけではありません。

29. 占領時代、外務省はどの官庁よりも米国の影響を受けました。外務省に、気を見るに敏,事大主義の気質がどの官庁よりも強く存在していても不思議はない気がします。

30. 「日本は米国の保護国である」といえば、多くの人は「そんなバカな」という反応を示されると思います。しかし米国人の発言のなかには、たしかに保護国という言葉が出てくるのです。ブレジンスキー(カーター大統領時代、国家安全保障担当の大統領補佐官として辣腕をふるった人です)は『グランド・チェスボード』という本の中で、日本をアメリカの「安全保障上の保護国」(セキュリティ・プロテクトレイト)と書いています。

31. 「日本が米国の保護国である」という状況は、占領時代に作られ、現在までつづいているものです。ではなぜ、「日本が米国の保護国である」という状況が、一般国民の眼には見えないのでしょう。それは実にみごとな間接統治が行われているからです。間接統治では、政策の決定権は米国がもっています。しかし米国の指示を執行するのは日本政府です。「米国が日本政府に命令している場面」は国民に見えません。見えるのは日本政府が政策を実行しているところだけです。その部分だけを見ると、日本は完全に独立しているように見えます。しかしだれが安全保障政策を決定し、命令しているかとなるとそれは米国です。日本はただ従属しているだけというケースが多いのです。
posted by Lily at 17:21 | 政治と憲法
2018年07月29日

178.日米関係さもあらん(2)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

16. 日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう。こう聞くとほとんどの人が、「1945年8月15日にきまってるじゃないか。いまさら、なにをいってるんだ」とおっしゃるかもしれません。たしかに8月15日は終戦記念日とされています。

17. それでは日本と戦った米国、英国、中国、ソ連は、どの時点を日本との戦いの終わりとみているでしょうか。私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです。

18. 通常、戦争は戦闘行為を停止し、休戦条約を結び、講和条約(平和条約)の交渉をして調印するという手順をふんで、はじめて終戦となります。昭和天皇が「時局を収拾したい」とか、「共同声明を受け入れることにした」とのべられたのは、そうした手順の一部にしかすぎません。ドイツは1945年5月7日、降伏文書に署名し終戦をむかえました。日本も1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国艦船ミズーリ号で降伏文書に署名しています。

19. 日本が終戦記念日を8月15日とし、9月2日としていないことに、なにか意味があるのでしょうか。あります。それは9月2日を記念日にした場合、けっして「終戦」記念日とはならないからです。あきらかに「降伏」した日なわけですから。そう、日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目
をそらしつづけているのです。

20. 「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう。

21. 日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」ことを約束したのです。降伏文書には「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」ということが書かれています。

22. 第二次大戦後、日本は米国に完全に従属する形で新しいスタートを切ったのです。そうした占領期に、日本の首相として活躍したのが吉田茂です。

23. 1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印式が行われました。ミズーリ号を調印の場にするというのは、トルーマン大統領自身が決めていた計画です。いったいなぜか。答えは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北を印象づけるために、米艦隊のなかでもっとも強力な軍艦の上で行う」というのが、戦艦ミズーリ号が選ばれた理由でした。

24. 日本は1945年9月2日、降伏しました。「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。それが、1945年9月2日から1951年9月8日(日本時間9日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法
2018年07月22日

177.日米関係さもあらん(1)〜孫崎享『戦後史の正体』より〜

筆者が憲法と向き合って久しいが、その過程で避けては通れない2つの問題に気がついた。1つは歴史。具体的には満州事変以降の日本の歴史である。そしてもう一つが日米関係だ。人権は憲法で保障されているはずである。その人権が守られない時、アメリカが関与しているケースのなんと多いことか。沖縄がいい例だ。

なぜ日本はここまでアメリカに弱いのか? なぜすべての政策においてアメリカの言いなりなのか? この疑問は長らく筆者の中でくすぶり続けていた。そして「日米関係と日本国憲法は両立しない」ということを確信するに至った。今、この疑問の核心がくっきりと見えるところまであと一歩、というところまで来たように思う。優れた本たちのおかげである。孫崎享さんの『戦後史の正体』もそうした書物の1冊。さもあらん! と納得する箇所が随所にあった。うろこがいくつあっても足りないと思うほど目からうろこが落ち、次第にそうしたポイントを資料として控えておきたくなった。この作業はしばらく続きそうである。ぜひ、お付き合いされたし。


01. 日本の戦後史は「米国からの圧力」を前提に考察しなければ、その本質が見えてきません。

02. 戦後の日本外交は、米国に対する「追従」路線と「自主」路線の戦いでした。

03. 日米の外交におけるもっとも重要な課題は、つねに存在する米国からの圧力(これは想像以上に強力なものです)に対して、「自主」路線と「対米追随」路線のあいだでどのような選択をするかということです。そしてそれは終戦以来、すっとつづいてきたテーマなのです。

04. 「なぜ日本はこうも米国の圧力に弱いのだろう」この問いは、私の外務省時代を通じて、常につきまとった疑問でもありました。

05. 米国からの圧力や裏工作は、現実に存在します。

06. 日本は1945年9月2日、ミズーリ号で降伏文書に署名しました。そこから「戦後」が始まります。この戦後の最初の日から、日本は「対米追随」と「自主」のあいだで重大な選択をつきつけられたのです。

07. 多くの政治家が「対米追随」と「自主」のあいだで苦悩し、ときに「自主」路線を選択しました。歴史を見れば、「自主」を選択した多くの政治家や官僚は排斥されています。

08. 私は日本のなかでもっとも米国の圧力に弱い立場にいるのが首相だと思っています。

09. 冷戦期にアメリカ(CIA)やソ連(KGB)がイタリアで行なっていた裏工作は、同じく日本でも行われていたと考えるのが常識です。事実、1950年代から60年代にかけて、CIAが自民党や民社党の政治家に巨額の資金を提供していたことは、米国側の公文書によってあきらかにされています。歴史を勉強していない人だけが、それを「陰謀論だ」などといって安易に否定するのです。

10. 日本が今後、国家としての方針を決定するときも、過去の歴史のなかでどうような形で米国から圧力をかけられ、どうような形で路線選択をしてきたか、よく知っておく必要があります。とくに米国に対し「自主」路線をつらぬくことがどれほどむずかしいか、よく理解しておく必要があります。

11. 日本の戦後史について、いろいろと素晴らしい研究があります。しかし日本の戦後史全体を、米国からの圧力とそれへの抵抗を軸に記述した本はありません。

12. 米国に対する「追随路線」と「自主路線」の対立という視点から大きな歴史の流れをみることによって、はじめて日本人は過去の歴史を正確に理解することができ、日本の行く先も見えるようになるのだと思います。

13. 私は長く外務省にいたため、米国からのさまざまな圧力や、「対米追随」と「自主」というふたつの外交路線の対立について、実際に現場で体験しています。その大きな歴史の流れを描くことを、もしだれかがやらなければならないとすれば、勇気をもって行うべきはおそらく外務省のOBでしょう。

14. 戦後の混乱のなかで、米国に毅然と立ち向かい、意見を主張した政治家たちがいました。重光葵、石橋湛山、芦田均、鳩山一郎などです。驚くことに多くの人の印象とは逆に、岸信介もこのなかに入ります。そして彼らの多くは、米国によって政治の表舞台から排斥されています。

15. 対米追随路線と自主路線。このふたつの糸で戦後の日米関係を書いてみたいと思います。冷戦後ではなく、1945年9月2日から始めたいと思います。


posted by Lily at 15:17 | 政治と憲法