2018年08月05日

179.日米関係さもあらん(3)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

25. 第二次世界大戦の日本においても、東京裁判にかけられるところまではいかなくても、職を奪われた人たちが大勢いました。まず軍国主義に関与した人物として、1946年1月に約6千名が公職から追放されました。ついで1947年1月から48年8月までのあいだに、政党・経済界・報道機関などの要職についていた人たちが約19万名追放されています。当時の雰囲気を、内務省で公職追放令を創る作業にあたっていた後藤田正晴(のちに警察庁長官、官房長官などを歴任)は、次のように書いています。「みんな自分だけは解除してくれと頼みに来る。見るも無残だな。えらい人が陳情にくるんだ。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと〔思ったものだ〕」(『情と理―後藤田正晴回顧録』講談社)。こうした状況のなか、なんとか米国に追従しようとする動きがうまれてくるのは当然かもしれません。

26. 戦後の日本外交における「自主路線」のシンボルが重光葵です。「対米追随路線」のシンボルが吉田茂です。そして重光は当然のように追放されます。重光外相は、降伏文書に署名した9月2日のわずか2週間後、9月17日に外務大臣を辞任させられています。「日本の国益を堂々と主張する」。米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。求められるのは「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう外務大臣です。それが吉田茂でした。重光が辞任した後、次の外務大臣は吉田茂になります。戦後の日本外交の歴史において「自主路線」が「対米追随路線」にとって代わられる最初の例です。

27. 吉田茂は占領期・占領後を通じて、外相、首相と重要な役職を歴任し、戦後日本の方向を決めた人物です。さらに吉田の政策はその後、自民党の政策となり、50年以上継続します。

28. 占領初期、米国は日本経済を徹底的に破壊します。現在の私たちが常識としているような「寛容な占領」だったわけでは、まったくありません。その方針が変わるのは冷戦が始まり、日本をソ連との戦争に利用しようと考えるようになってからのことなのです。吉田首相が占領軍とやりあったから、戦後の経済復興があったわけではありません。

29. 占領時代、外務省はどの官庁よりも米国の影響を受けました。外務省に、気を見るに敏,事大主義の気質がどの官庁よりも強く存在していても不思議はない気がします。

30. 「日本は米国の保護国である」といえば、多くの人は「そんなバカな」という反応を示されると思います。しかし米国人の発言のなかには、たしかに保護国という言葉が出てくるのです。ブレジンスキー(カーター大統領時代、国家安全保障担当の大統領補佐官として辣腕をふるった人です)は『グランド・チェスボード』という本の中で、日本をアメリカの「安全保障上の保護国」(セキュリティ・プロテクトレイト)と書いています。

31. 「日本が米国の保護国である」という状況は、占領時代に作られ、現在までつづいているものです。ではなぜ、「日本が米国の保護国である」という状況が、一般国民の眼には見えないのでしょう。それは実にみごとな間接統治が行われているからです。間接統治では、政策の決定権は米国がもっています。しかし米国の指示を執行するのは日本政府です。「米国が日本政府に命令している場面」は国民に見えません。見えるのは日本政府が政策を実行しているところだけです。その部分だけを見ると、日本は完全に独立しているように見えます。しかしだれが安全保障政策を決定し、命令しているかとなるとそれは米国です。日本はただ従属しているだけというケースが多いのです。
posted by Lily at 17:21 | 政治と憲法