2018年06月24日

173.沖縄戦

「日本ではどうしても記憶しなければならないことが4つあると思います。終戦記念
日と、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日」
(『戦争をしない国 明仁天皇のメッセージ』pp.44-45)。

明仁天皇の、昭和56年(1981年)8月のお言葉である。実際、6月23日と聞いて、沖
縄戦終結の日と答えられる日本人はどれほどいるだろうか。毎年のこの日、沖縄県で
は慰霊祭が行われている。しかし、本土では実況中継はおろか、ほとんどニュースに
されないのが実情だ。これでいいのか。いいわけがない。陛下は必ずこの4つの日に
家族で黙とうをささげるそうだ。

今年も6月23日を迎えたばかり。これを機に以下、沖縄市役所の『沖縄戦の実相』か
ら。

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■ 沖縄戦とは

沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連
合軍と日本軍との間で行われた戦いでした。

沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で
行われました。沖縄守備軍(第32軍)の任務は、南西諸島を本土として守りぬくこと
ではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けし、国体護持・本土決戦に備えるこ
とでありました。

1.米軍本島上陸

米軍は、沖縄本島上陸前の1週間で約40,000発の砲弾を撃ち込み、1,600機の艦載機で
爆撃・機銃を加えたといわれています。そして、4月1日、本島中部西海岸(北谷村、
読谷村)から日本軍の抵抗をほとんど受けることなく、無血上陸に成功し、米軍は、
その日の午後2時頃には北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を占領
し、翌2日ないし3日には石川や泡瀬方面の東海岸まで到達して本島を二分する作戦に
でました。そして、4月5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯をほぼ制圧した
のです。

2.本土分断

本島分断に成功した米軍は、主力を首里方面へ向けて進撃し、一部の海兵師団は海岸
沿いに北上しました。本島北部には、本部半島の国頭支援(宇土部隊)を除けば日本
軍の主力は配置されてなく、北上した米軍は進撃を続け、北部最大の激戦地といわれ
た伊江島も21日には完全に占領されたのです。

3.日本軍主戦力の8割を失う

米軍の主力は、4月7日頃から沖縄守備軍の陣取っていた首里方面をめざして総攻撃開
始。これに対し、日本軍は首里陣地本部を死守しようと反撃し、日米両軍は首里北方
の浦添村前田、宜野湾村の嘉数高地を中心に一進一退の攻防戦を40日間も展開し、こ
の戦闘で日本軍は主戦力の8割を失い、5月下旬、首里を放棄して本島南端の摩文仁へ
撤退しました。

4.牛島司令官自決

摩文仁へ撤退はしたものの、日本軍はすでに主力の大半を失っており、6月20日前後
には軍の組織的抵抗はほとんどなくなったといわれています。やがて、6月22日(23
日)、牛島満軍司令官と長勇参謀長は摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決。しかし、牛
島らは部下に対して「最後まで敢戦」するように命じていたため、以後、日本軍の敗
残兵が各地で出没することとなります。

5.6月23日以降もなお続く戦闘

宮古郡島や八重山郡島では8月15日まで戦闘状態が続いており、日本軍が武装解除さ
れたのは9月上旬のことでした。ところが、日本政府は8月14日にポツダム宣言を受諾
して敗戦処理に取りかかっており、ひとり沖縄だけがなお、戦闘状態が続いていたこ
とになります。8月26日にいたって、沖縄戦攻略部隊のアメリカ第10軍司令部は「9月
2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じるように」連合司令部から命令をうけて
います。これは、9月2日に東京湾のミズリー号上で、日本が連合軍にたいして公式に
降伏調印をしたことをうけて、最終的に沖縄戦を終結に導くものでありました。

6.沖縄戦の終結

沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行
われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団
長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執
行されました。1945年(昭和20年)9月7日のことであります。
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年号や日付だけを暗記する歴史教育がいかに無意味なことか。正しい歴史認識へのア
プローチを試みるたびに感じることである。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法