2017年07月23日

125.故・日野原重明さんのメッセージ

終戦を機会に、日本は世界にない「平和の国」になった。でも今また戦争に加担するような自衛隊になってしまうっていうことはね、僕自身の心は裂けるような思いですね。私は憲法というのを、日本こそ平和の国にならなくてはならないということを子どもに一生懸命教えてね、将来の日本を作る子どものためにはやはりね、憲法の本当のことをですね、教えたいと。

7月18日に医師の日野原重明さんが107歳でお亡くなりになりましたが、上記は103歳のときのお言葉です。以下、NHKの『私の中の戦争 医師 日野原重明さん 〜救えなかった命への誓い〜』より。後世に向けた大切なメッセージです。日野原先生の「同志」に私はなろうと思います。


■病院に近づく戦争の足音

「この病院はね、空襲はなかったんですが、憲兵隊やなんかが来てね、『チャペルの上の塔の十字架を外せ』と言うのですよ。この病院の建物の礎石に、この病院は神の栄光のためにそうして人々の福祉のためにできた病院です、と書かれているんです。憲兵隊が来てね、『礎石を取れ』っていうふうに言ってたんですよ。でもそんなことはできないでしょ?それでしかたなしにね、私たちは病院の礎石と同じちょうど畳2畳ぐらいの大きなところにね、御影石を切って、その御影石を貼り付けて釘でそれを隠してしまった。『聖路加国際病院』という名前も、よくないということでですね、『大東亜中央病院』という名前に変えられた」

「私は京都大学の医学部の2年の時に肺結核になってね、1年休学して結核の療養したんですよ。そのあと徴兵検査を受けたからこれは丙種(へいしゅ)ということになって、もう軍隊にとられないということには一応なったんですよね。その後、戦争がひどくなって、陸軍にとられれば歩兵になって戦線に行かなくちゃならないようになった時にね、海軍を志願すれば4週間のこのトレーニングで軍医ですね、海軍の少尉となる。そういうようなことができたんで、私は36歳の時にね、この聖路加病院に勤めているうちの4週間、(神奈川県の)戸塚でですね、海軍病院で訓練を受けて海軍少尉になったんです。私の海軍少尉の写真なんかもその時、撮ったことを思い出しますがね」



■多くの命を救えなかった東京大空襲

「東京大空襲の時にやけどでですね、重症のやけどで聖路加病院にどんどん(負傷者が)入院したんですが、そのやけどの患者さんがチャペルの前のロビーにね、マットレスをしいて、そこで我々は治療して」

「新聞紙を焼いて灰にして、(やけどで傷口が)じゅくじゅくしてるでしょ、これを乾かすことができないからね、灰をかけたけれども、半分以上ですね、このやけどになるとね、いくらそんなことをやってもね、死んでしまうんでね」

「戦場の第一線がこの病院の中に現れているような感じを持ちましたね」

「ちょうど戦場に行ってね、それでみんな撃たれるでしょ、血が出る。薬がないわけですよ。それと全く同じですよ。薬がないんですよ。今だったらいろいろするんですが、その時は薬はないしね、包帯もないしね。とにかくなんか押さえつけて血を留めて命をなんとか延ばしたいという気持ちになって看護師さんと一緒にね、もう時間の経過することは全く分からなかったですね。本当に悲壮そのもので、形容詞はない。そういう気持ちでしたよ」

「もう生き地獄だというようなかんじですね。生き地獄」


■“命”を考えた終戦の日


「チャペルの前のラウンジですがね、これはそうとう広いから、職員がみんなが集まるのにね、ちょうどいいということで、院長の命令で時間を早く、早めに集まって下さいと言ってね。その時、私は内科医長をやっていたんですよね。びっしりと病院のみんなが集まりましてね。天皇陛下の玉音放送があるということでですね、ラウンジスピーカーを用いて。その音を皆さんがね、座りこんでね、そして玉音を聞いたわけですよ。私はね、いちばん前に近いところにひざまずいてね、そうして玉音を聞いたわけですがね。そうしましたらね、玉音放送で、いよいよですね、日本はですね、アメリカの軍にね、無条件降伏をすることになったという天皇陛下のね、声が聞いた時はね、今でもこの天皇陛下のこのお声がね、ろうろうとしたね、声、それで少し震えるような声でね、天皇陛下が語られたのを私たち聞いてね、この瞬間ね、これでね、もう全ての戦争が打ち切りだなというふうな気持ちを持ったからね、もう何かね、魂がこう抜けたようなもうショックを受けましてね。それで天皇陛下のお声をずっと聞いたんですよ。それを聞きながらね、職員の多くの人が涙を出しました。私も涙を拭きながらね、その天皇陛下のですね、その放送の最後まで聞かされて、これでね、日本はどうなるかと」

「でもですね、やっとこれで空襲がなくなって本当にみんなの命をここで助けられたんだから、これからは立ち上がるためになんとか頑張ろうじゃないかという決心をみんなの心の中にその立ち上がる決心を抱いたのがあの日のですね、15日の大きな出来事ではなかったかと思います」

「もうね180度転向ですよ、気持ちは。私たちがね、殺されるということから、死ぬのを防ぐというより、今度はね、傷ついた人を助けて早くですね、まともな生活に復帰させて、日本を復興するために一緒に働いてくれというふうなことをですね、みんなに頼まなくちゃならないから。前向きの気持ちが強く出てきてですね、これはやはり医者として使命感、義務感がどんどん出てきてそして看護師さんと一緒にそういう行動を私はやったわけですね」

「その時のことをね、思い出せるような人はもうほんとにわずかしかなくてね、みんなその伝え話し聞くことだけでしか終戦のことを分からないわけですが、私は幸いにその時に40歳足らずでありましたけれども、ずっと今日まで私が103歳までこの生きてきたために、私がこの話をですね、伝えて、次の時代の人にね、考えてもらうということをする役割を私は今にしてですね、与えられているんじゃないかと私はこういうふうに思いましたね」

■終わらなかった“戦争”


「マッカーサーがですね、GHQを東京に開いてからね、『2週間以内に聖路加国際病院はアメリカの第42病院として使うから、病院の明け渡しをして下さい』と言ってね。2週間後には私たち職員もですね、全部病院から出てね。そしてそのごく近くにね、病室らしい病室がないんですが、わずか20床の病室を持つ有床診療所というのがですね、東京市が経営しているところがあったので、私たちはそこにですね、レントゲンの機械やいろんな機械を置いて、そしてそこで仕事を始めたという、そういうことがあったわけですよね」

「戦争中はひどい大空襲がどんどん続いてね、何もかも家も焼けてしまう。ただこの病院だけはですね、まともに焼夷弾がこないで助けられたのはね、私はキリスト教の病院だったから、これはですね、アメリカ軍が遠慮したかと思ったらね、ちゃんとこれはね、戦後にアメリカの軍病院にしたいということがあったからこれを免れたんだということが後になって分かったんですよ」

「GHQのままにマッカーサーのままにですね、受け身になって私たちは行動しなくちゃならないけれども。患者が入ってくるから、患者の命をですね、助けなくちゃならないということが続いているわけでしょ。実際どういうふうにやるかというは私たちがやらないといけないからね。私たちの責任が非常に強いということをですね、私はその時に感じましたね」

「接収された後、私は病院長に会ってね、『私は聖路加で働いていたんだけれど、この聖路加には図書館があるから、できれば図書館に入るパスをください。そして1日のうちの若干の時間でも図書館に寄って、どういう医学がアメリカにあるかを僕はですね、知りたいから』と言って希望したら、その特別なパスをくれて、私は病院に出入りをして、初めてですね、アメリカ医学がいままでのドイツ医学やそういうものとは違ったね、すばらしい医学であるということを私は発見してね。早くこのアメリカ医学を日本の学会にね、紹介しなくちゃな、という使命感を感じてね、私はですね、アメリカ医学というこの月刊雑誌をね、出版をして、そうしてですね、皆さんの教育に一生懸命になった」


■平和への思い

「終戦の時はね、もう日本には軍隊はなくなったっていうんでね、平和の国家になるんではないかということを私たちは非常に強く感じてね、日本こそね、平和の国として我々が背負っていかなくちゃならないという決心をしたことを今でも強く私は思い出します」

「ところがもうその終戦の時のことをですね、知る人は少なくなったから、残った日本人はそういうことを全然分からないから、平和ということに対する考えがね、非常に不明慮になってきたわけです」

「日本は軍隊を持たないということを宣言したのにもかかわらず、自衛隊ができたら、アメリカと自衛隊が訓練をするということになったわけですよ。今度はですね、(集団的自衛権の行使容認を閣議決定して)アメリカが行くところに自衛隊が一緒にいくとしたら日本は自己矛盾をね、本当に。終戦を機会に、日本は世界にない「平和の国」になった。でも今また戦争に加担するような自衛隊になってしまうっていうことはね、僕自身の心は裂けるような思いですね。私は憲法というのを、日本こそ平和の国にならなくてはならないということを子どもに一生懸命教えてね、将来の日本を作る子どものためにはやはりね、憲法の本当のことをですね、教えたいと」

「人の命を守るというのはね、戦争をやめてしまうという方向に持っていかないといけないから、子どもたちのためにも、多くの人にですね、語りかけているわけですね」

「私はそこで講演会をする時ははね、平和こそ目指さなくちゃならない、平和を子どもにも伝えるためには子どものですね、10歳の子どもにですね、小学校に訪問をしてですね、いのちの授業という45分の授業を始めて、毎月1回は日本のどこかの小学校に行って平和の授業ですね。授業で「いじめをなくすることと同じことだ」と。お互いに許し合うことによっていじめがなくなるように。平和というのはね、お互いが国同士が許し合うというようなことがされないと平和は起こらないということを、私はですね、あちこちで話をしているわけです」

「戦争というものはね、全て人の心、人を殺し合うこと。戦争というのは人の命を奪うことでしょ。人間に与えられた命をですね、全部ですね、非情にですね、武器を用いながら全部命を殺してしまうという。お互いに殺人をやっているという、敵味方ね」

「人が人を殺すことがよくないということをね、現実を体験した者としてみんな知らないんだからね。それをとにかく知らせようというのにね、次の時代を使う子どもにこそ、それがですね、大切であってそれを伝えることがいじめをなくすことにもなるから。今の命を無視することをね、なくするようにね、お互いにやろうじゃないか、仲良くやろうじゃないですかっていう気持ちがますます強くなって、そのために私は少しでも長い間生きていたいという望みを持っていますね」

「戦争をするということをなくすることがですね、必要であって、その思いを子どもたちにですね、私たちは伝えなくちゃならない」

「次の時代にですね、何をどのように伝えていくかを考えなくちゃならない」

「戦争体験を伝えなくてはという気持ちは非常にだんだん強くなる。つまり私も人間だから寿命があるでしょ。今103歳。何歳まで生きるか分からないけど、寿命があるのは私は分かっている。だから私は寿命がある間に伝えなくちゃならないという使命感が非常に私には強いんですね」

「私のね、講演活動は病気をする前よりも多くなった。だから私のスケジュールは非常に忙しいんですがね、それをやることが自分の使命であるというね、そういうミッションの気持ちを持って行動しているというのが私の心境です」

「今私が叫んでもね、叫んでいる声を伝える人を作らないと。そうであるなら子どもにそれを伝えることがいちばん大切だなと。そのことがいじめをなくすることにもなるからということを私はですね、ミッションという言葉、これは使命感ですね、私はそのために命があるんだなっていうその使命をね、やはり広めようというですね。命を大切にするということにサインをして欲しいと私は思っております」

「今は70年を感じる人がないから。だからそういう人に実感を持たせるような話をすることは非常に難しい。難しいですね。一から話をしなくちゃならないし。なんでも食べられる食事が十分にある時に飢えの話をしてもね、実感が与えられないようにね、今、戦後70年を記念するんだけれども、しゃべるほうは実感を感じながらしゃべるけれど、聞く人にそこまで、徹底するのは難しい。至難の業だと思いますね。でもやらなくちゃならないっていうね」

「体験した人たちは少ないけれども、やっぱり語り継がないとね、だめじゃないでしょうかね。そういう意味で同志が必要なんです、私に同志が必要です」


※出典:2015年4月5日。NHK 私の中の戦争 医師 日野原重明さん 〜救えなかった命への誓い〜

posted by Lily at 13:02 | 政治と憲法