2017年05月21日

116.安保闘争(1960)の時は

2017年5月19日。「共謀罪法案」「テロ等準備罪処罰法」など呼ばれるところの「組織的犯罪処罰法改正案」が衆院法務委員会で強行採決され、自民党、公明党、日本維新の会の3党の賛成多数で可決されました。

折しも1960年5月20日に自民党が衆議院で新日米安保条約を単独で強行採決しています。当時の総理大臣は岸信介で、この新安保条約(正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」)をめぐっては、各地で反対運動が繰り広げられていました。この闘争の中、東大生の樺美智子さんが亡くなった話は有名です。

この1960年の安保闘争と、今の政治情勢とは非常によく似ていると言われていますよね。そこで今回は、当時の模様について改めて把握しておきたいと思います。以下、蔭山克秀氏の『やり直す戦争史』より抜粋させていただきます:

人々の記憶には、まだ先の大戦が生々しく残っている。もう二度とあんな経験はしたくない。しかも岸は、東條内閣の閣僚で日本の宣戦布告文書にも名を連ねる“元A級戦犯容疑”だ。ひょっとしたら日本は、再び軍国主義化するのかもしれない――。

人々は1959年に結成された「安保改定阻止国民会議」の統一行動の下に集い、国会審議が始まる前から、「安保改定阻止」は学生から主婦まで参加する大衆運動に発展しつつあった。

そして1960年2月より、国会審議が始まった。日本社会党は日本をアメリカの戦争に巻き込むつもりかと猛反対し、話し合いはもつれにもつれた。

しかし5月19日、採決阻止のために委員会室で座り込みを続ける社会党議員たちを警官隊や秘書を使って強引に排除し、ついに安保改定案は、まず委員会で強行採決され、次いで翌日の本会議でも可決された。

この強行採決を機に、「安保闘争」は一気に盛り上がった。安保改定阻止国民会議の呼びかけには560万人が集い、全国各地で大規模な集会やデモが実施された。抗議集会は1959年から60年にかけてだけで6000ヵ所以上、またデモ行進は5000ヵ所以上で行われている。

また学生組織としては、日本共産党とケンカ別れした急進派学生たちが「共産主義者同盟(ブント)」を結成し、その下にあった「全日本学生自治会連合(全学連)」が、激しい反対闘争を展開した。

このように、国会議事堂の周囲は連日デモ隊に取り囲まれ、警官隊、学生、運動家、右翼団体構成員などの小競り合いが常態化した。

そして、参議院の採決がないまま日にちが過ぎていく。このまま衆議院で可決された後30日間参議院での採決なしが続けば、条約は「衆議院の優越」規定により自然承認される。

6月10日には、アイゼンハワー大統領の来日日程を協議しに羽田に来たジェームズ・ハガチー米報道官が、空港に押し寄せたデモ隊に包囲され、命からがら脱出するという「ハガチー事件」が起き、結局アイゼンハワー大統領の訪日もかなわなかった。

そして6月15日には、全学連運動家で東大生の樺美智子さんが、国会議事堂前でのデモで衆議院の南通用門から国会内に突入した際、機動隊ともみ合って圧死するという事件まで起きてしまった。

警察が一般人女性に暴力を振るい殺した――この事件はマスコミ各社から大々的に取り上げられ、岸内閣は窮地に立たされた。ここまで事態が悪化したら、誰かが責任を取るしかない。結局岸は、この条約が自然承認された四日後、首相を辞任した。
(引用おわり)

そうなんですよね。あの時は、新米安全保障条約は承認され、一方、岸内閣は窮地に陥り、岸信介は辞任。今回に関しては、どういった結末を迎えることになるのでしょう?

※引用参考データ:蔭山克秀『やり直す戦後史』
「まるで今と同じ!?今こそ知っておきたい1960年の安保闘争とデモの結末」
(2015年8月7日)
posted by Lily at 11:43 | 政治と憲法