2018年09月30日

187.日米関係さもあらん(6)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

47. 冷戦がはじまると、米国は日本をソ連からの防波堤に使おうとしました。米国の占領初期の政策で一番重要なことは、「日本がふたたび米国の脅威にならないことを確実にする」ことでした。米国は終戦直後、日本に太比して非常にきびしい経済制裁を加えました。日本がふたたび軍事大国にならないように、です。しかし、の「日本経済を低水準にとどめておく」という政策は、1948年に変更されます。それはなにも日本の政治家が米国を説得したからではありません。米国人が急に人道主義にめざめたわけでもありません。米国の世界戦略にこのとき大変化が起きていたのです。つまり、「東アジアでは将来、ソ連とのあいだで戦争が起こるかもしれない。そのときには日本の経済を、少なくとも自給自足できるレベルにまで引きあげておく必要がある」ということです。冷戦下のソ連との戦いのなかで、日本を防波堤として使うという考えが出てきたのです。「米国はその世界戦略のなかで、各国をどのように使うかをつねに考えています。米国の世界戦略が変われば、将棋のコマである日本の役割も大きく変わります」.まさにその通りのことが1948年に起こったのです。米国にとってもっとも重要な世界戦略の目的が、それまでの「日本とドイツを二度と立ち上がれないようにすること」から「ソ連に対抗すること」に変化します。そうなると、将棋のコマとしての日本のあつかいも変わってくるのです。

48. 冷戦とはいったいなんだったのか、そのなかで日本にどういう役割が期待されたかについて、考えてみる必要があります。冷戦の始まりをうけて米国では、国防省長官や元大統領といった人びとが、いっせいに共産主義の脅威に対抗するため、日本の工業力を利用すべきだという方針を打ちだします。占領当初の米国の対日政策は、
「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」というものでした。しかし「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」が米国にとっての国益だと判断すると、一気に戦略を一八〇度転換させたのです。そして戦略が変更すると、対日政策も大きく変わります。しかしこの米国本国の急激な路線転換は、それまで日本に君臨してきたマッカーサーの占領政策を完全に否定するものでした。当然、マッカーサーとトルーマン大統領および国防省との対立がはじまります。結局、朝鮮戦争をめぐってその対立は激化し、マッカーサーは解任されることになるのです。

49. 米国が「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用する」方針へ転換したことは、日本の占領政策を大きく変える結果となりました。政策だけでなく、人のあつかいも変わります。戦犯に問われた人も、ソ連との対抗上、必要とされるようになります。戦犯が釈放され、政界に復帰する動きがつづきます。つづいて朝鮮戦争が起こり、米国の対日政策の変化が確定します。米国は日本に経済力をつけさせ、その軍事力も利用しようと考えるようになりました。

50. マッカーサーは連合国最高司令官として日本に君臨しました。彼は日本の軍事力を解体することを目標としていたので、当初、日本の軍事力の復活はまったく考えていませんでした。

51. 冷戦がなければ、そして朝鮮戦争が起きなければ、米軍はかなり早い段階で日本から撤退していたはずだったのです。占領初期の政策は「日本が二度と米国の脅威にならないようにする」、そして「懲罰的な態度でのぞむ」ということでした。しかし冷戦が始まった結果、日本に期待されることは「経済的・政治的安定と軍事能力を強化し、米国の安全保障に貢献する」こととなったのです。こうして米国の対日政策は一八〇度変わりました。それをさらに決定づけたのが朝鮮戦争だったのです。
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2018年09月23日

186.日米関係さもあらん(5)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

41. 占領期から1955年に自民党ができるまでの戦後史は、ゴチャゴチャしていてわかりにくいという声を聞きます。しかし、外務大臣という側面から光をあてると、実にわかりやすいのです。まず1945年8月17日に外務大臣となった重光葵が、9月2日、降伏文書にサインしたあと、2週間後に更迭されます。代わって外務大臣になった吉田茂が1年8カ月、つづいて芦田が1年4カ月、ふたたび吉田が3年半、その子分だった岡崎が2年半、そのあとふたたび重光が2年。これが敗戦から11年間の日本の外務大臣です。きれいに「自主(重光)」「追随(吉田)」「自主(芦田)」「追随(吉田・岡崎)」「自主(重光)」と入れかわっていることがわかります。その間、吉田と芦田はすぐに首相を兼務するようになり、重光も2度目は副総理を兼務しています。ある意味、首相よりも、米国と直接接する外務大臣が重要な時代です。圧倒的に強い「米国からの圧力」を前に、「自主路線」と「追随路線」が激しくせめぎあっていた。それが敗戦後約10年間の日本の歴史です。ただ在任期間を見るとわかるように、吉田茂の追随路線がやはり圧倒しています。

42. 私たちはよく「米国(アメリカ)は」と口にします。しかしこの「米国」はとても複雑です。それが同じ「米国政府」をさしている場合でも、その中で国務省対国防省、国務省対CIAなど、さまざまな勢力の対立があるからです。占領時代もそうでした。ライシャワーが、次のようにのべています。「(当時)GHQの内部には、ふたつの流れがありました。ひとつは情報担当部局〔G2〕で、ここは軍事試行が強いので早くから冷戦的態度をとりました。一方、GHQ民政部門〔GS〕の関心は日本の戦後改革でした」(『日本への自叙伝』)。こうした米国内部の対立に、日本側の勢力がそれぞれ加わります。ひとくちに「対米追随」といっても、いくつかの勢力にわかれるのです。

43. 検察は米国と密接な関係を持っています。とくに特捜部はGHQの管理下でスタートした「隠匿退蔵物資事件捜査部」を前身としています。その任務は、敗戦直後に旧日本軍関係者が隠した「お宝」を摘発し、GHQに差し出すことでした。

44. 米国の情報部門が日本の検察を使ってしかける。これを利用して新聞が特定政治家を叩き、首相を失脚させるというパターンが存在することは、昭電事件からもあきらかです。
@米国の一部の勢力が、日本の首相の政策に不満をもつ
A日本の検察が汚職などの犯罪捜査を、首相本人ないし近辺のものに行う。有罪にならなくてもよい。一時的な政治上の失脚があれば目的が達せられる
Bマスコミがその汚職事件を大々的にとりあげ、政治的、社会的失脚に追いこむ
C次の首相と連携して、失脚させた首相が復活する可能性を消す

45. 特捜部は検察の一部門で、東京・大阪・名古屋にだけ置かれています。政治家の汚職は大型脱税事件、贈収賄事件など、政治的・社会的に影響の大きい事件だけをあつかう特別な組織です。一般的な刑事事件は、警察が捜査・摘発し、検察が起訴しますが、特捜部が手がける事件は、最初から自分たちが捜査・摘発し、起訴する場合が多い。日本のような一審有罪率99.9%の国で、捜査・摘発と起訴を同じ組織が行なうわけですから、特捜部がその気になれば、どんな事件だって作ることができます。

46. 歴史的に特捜部は米国と深い関係をもっています。まず1947年、東京地裁特捜部が占領下でGHQのために働く特捜機関として発足します。敗戦直後は、それまで旧日本軍が貯蔵していた莫大な資材が、さまざまな形で横流しされ、行方不明になっていました。1945年10月にはGHQ自身が、東京の道井信託の地下倉庫からダイヤモンドをなんと16万カラットも接収しています。そうした不当に隠された物質を探しだして、GHQの管理下に置くことを目的に設置された「隠匿退蔵物資事件捜査部」が、東京地検特捜部の前身です。「GHQの管理下に置くことを目的にする」、つまり、GHQのために「お宝」を見つけ出す特別の捜査機関、それが東京地検特捜部の前身だったのです。
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2018年09月16日

185.日米地位協定を考える(2)

1950年代に起こったロングプリー事件。これは、都内から西武池袋線に乗った音大生が、米軍基地内の米兵から狙撃され、車内で死亡したという驚くべき事件であった。

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1958年9月7日午後2時ごろ、米軍ジョンソン基地を横切る線路上を西武池袋線下り電車が走行中、埼玉県入間市の稲荷山公園付近で同基地に所属するピーター・E・ロングプリー三等航空兵(19歳)が車両に向けてカービン銃を発射し、基地内へバンド演奏のアルバイトに行く途中だった武蔵野音楽大生・宮村祥之(21歳)が死亡した。発砲の動機についてロングプリーは『カラ撃ちの練習をしたところ実弾が入っているのを忘れて射ってしまった』とのべた。埼玉県警と狭山署はロングプリーを重過失致死罪で浦和地検に書類送検した。(「埼玉新聞」他からまとめた事件の概略)

警備中の米兵は実弾を装填しないのが規則ですので、カラ射ちの練習をしたら実弾が入っていたというのはおかしい。おそらく走行中の列車に向けて、遊びで実弾の射撃練習をしていたのでしょう。さすがに日本の世論が沸騰したため、これを公務中とすることはできず、形だけの裁判が行われました。しかし浦和地裁の下した判決は金庫10カ月という信じられないほど軽いものでした。米軍関係者については基本的に裁判権を放棄するという密約があったからです。
[前泊博盛著『日米地位協定入門』(2013)創元社pp.146-148]


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2018年09月09日

184.日米地位協定を考える(1)

日米地位協定と憲法は両立しない。筆者が憲法問題を考えるようになって痛感したことのひとつである。日米地位協定が憲法の邪魔をしているのだ。

憲法は国民のものである。宝といっていい。それほど憲法の価値は高い。その宝が日米地位協定によってないがしろにされている。看過し得ないゆゆしき問題である。

その日米地位協定の抜本的改定を国に求める提言が、全国知事会で全会一致で採択された。2018年7月27日に札幌で開かれた全国知事会でのことである。筆者はこれを2018年8月8日付の東京新聞で知ったのだが、はたして他紙はこの重大ニュースを伝えたのだろうか。伝えなかったとしたらその理由は何なのか。疑問に思う。

日米地位協定の見直しを国に求めるのは、全国知事会にとどまらず国民全体でやるべきだ。これは次世代に対する責任でもある。そのためには、この協定のもとでいったい何が起こっているのか、そのすべてを白日の下にさらさらす必要がある。そのほんの一部を紹介すべく、以下に『日米地位協定入門』から「不備だらけ協定」と「法の空白地帯」を引く。
 
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沖縄県内の米軍基地では、かつてベトナム戦争で使用され、奇形児の誕生など深刻な健康被害をあたえた「枯葉剤」が、1960年代には軍事演習で日常的に使用されていたことが最近になってあきらかになりました。米軍の退役軍人が枯葉剤を使用したために病気になったとして、米国政府を訴えたことで表面化したのです。

そのほかにも、変換された米軍基地の跡地から水銀やヒ素、PCBなどの有害物質が大量に検出されたり、有害物質がドラム缶につめられてうめられているのが発見されたりしています。

PCBについては、嘉手納基地内に掘られた池に無造作に保管されていることが基地従業員の通報でわかりましたが、米軍に問い合わせると「そんな事実はない」と否定されてしまいました。結局、あとになって米軍がそのPCB保管池を埋め立てて証拠隠滅をはかっていたことが判明しています。

そのPCBがどうなったか。その後の対応を聞くと驚きます。土中に埋められたPCBは放置しておけば、地下水の深刻な汚染を引き起こすことになります。嘉手納基地は沖縄本島でも地下水が豊富なところで、かつて沖縄が本土に復帰する前は、沖縄本島の水道水の二割を嘉手納にある数多くの井戸に頼っていたほどです。その地下水源の真上で米軍は、ただ土を掘ってつくった池におおいもかけず、PCB廃油を流し込んで保管(廃棄)していたのですからたまりません。

基地従業員の告発を受けた沖縄県や周辺自治体が「基地内」への立ち入り調査を申し入れました。しかし、米軍は地位協定上の「基地の管理権」をタテに立ち入り調査を拒否しました。そしてそのあいだにPCB廃油池を埋めてしまったのです。

結局、あとになって基地従業員の指摘どおりにPCB廃油池が発見され、埋め立てられた場所は掘り返され、PCBをふくんだ土ごとドラム缶に住められて処分されるはめになりました。

その処分は当然、米軍によって行われることになり、米軍はPCB入りドラム缶数百本を船に乗せて米国本国に運ぶことになりました。実際、船に乗せられたPCBドラム缶は、横浜経由で太平洋を横断して米国西海岸に到着します。ところが、ここで問題が生じました。
「有害物質を米国内にもちこんではいけない」
という米国の環境法に抵触するとして、米国内での処分が困難になったのです。米軍は仕方なく、PCB入りドラム缶を日本に持ち帰りました。有害物質が日本にもどってきたので、横浜港では日本の環境保護団体が輸送船に乗り込んで入稿をはばもうとするなど、猛烈な反対運動が起こりました。

その結果、米軍はドラム缶をまた沖縄に持ち帰ることになったようですが、そのごはどこに行ったかわかりません。最終的な処分は当時の防衛施設庁にゆだねられたと聞きます。防衛施設庁は福岡にあるPCB処理ができる民間企業に処理を委託したとの話もありましたが、不明です。

米国国内では環境法で規制されているPCBのとりあつかいや処分は、当然、日本の国内法でも規制されています。ところが、米軍基地内は地位協定によって米国の国内法は適用されず、日本の国内法も適用されないという「法の空白地帯」となっているのです。
日本の国内法が適用されないというのは、どう考えてもおかしな話です。それでは地位協定が日本国内で「法の空白地帯」を生んでいることになりますから、当然、改正をして、せめて日本国内の基地には、日本の国内法を適用して環境汚染や破壊を防止してほしいものです。
[前泊博盛著『日米地位協定入門』(2013)pp.77-79]

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2018年09月02日

183.日米関係さもあらん(4)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

32. 日本は、戦前は軍人をボスとする奴隷国で、そこから戦後は占領軍((GHQ)をボスとする奴隷国に変わっただけだと見られていました。

33. トルーマン大統領は次のように書いています。「マサチューセッツ工科大学の総長コンプトン博士は、〔日本から〕帰国したあとホワイトハウスに来て私に説明した。かれにまとめてもらった覚書は次のとおりである。日本は事実上、軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であった。

34. 日本人指導者が米国人に従属する構図は、米国人からはよく見えます。しかし日本の一般の人たちにはその姿が見えないのです。

35. 吉田首相は、占領下の首相に実にふさわしい人物でした。ある意味で占領中の彼の「対米追随路線」は、しかたなかった面もあるでしょう。問題は彼が1954年の講話条約以降も首相の座に居すわりつづけたことです。その結果、占領中の対米追随路線が独立後もまったくかわらず継続され、むしろ美化されて、ついには戦後60年以上もつづくことになってしまった。ここが日本最大の悲劇なのです。

36. 日本には保守本流という言葉があります。一般に「吉田茂がひきいた旧自由党系の流れを汲んだ、池田勇人、佐藤栄作などの官僚出身の政治家(いわゆる吉田学校)を中心とした勢力」とされています。この保守本流こそは戦後の日本政治そのものであり、その精神は今日までつづいています。その根本は「従属」なのです。

37. 天皇には明白な戦争責任がある。それなのになぜ連合国が最初から天皇を裁かないことに決めているかといえば、それは「連合国の利益」のためだからです。

38. 占領時代、日本は米軍駐留経費として大変な額を支払っています。このとき米国に減額を求めて追放されたのが石橋湛山で、米国のいうとおりにしたのが吉田茂でした。

39. 日本は敗戦後、大変な経済困難にあります。このなかで、6年間で約5000億円、国家予算の2割から3割を米軍の経費にあてているのです。ちょっと信じられないような金額です。「占領下だから文句をいってもしょうがない。なまじっか正論をはいて米国からにらまれたら大変だ」というグループがいます。もちろん吉田茂が中心です。一方、「自分たちのほうが正論である。したがって、いうべきことはいう」というグループがいます。第一次吉田内閣に大蔵大臣として入閣し、のちに首相となる石橋湛山のグループです。石橋湛山は、GHQによって1947年5月16日、公職追放されてしまいます。石橋の側近だった石田博英は次のように書いています。「石橋蔵相が力を入れた問題に終戦処理費の削減がある。当時は国民のなかに餓死者が出るという窮乏の時代にもかかわらず、進駐軍の請求のなかに、ゴルフ場、特別列車の運転、はては花や金魚の注文書まで含まれていた。総額は60億ドルになると記憶しているが、石橋蔵相はあらゆる手をつくして、それを削減した」。

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