2018年07月29日

178.日米関係さもあらん(2)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

16. 日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう。こう聞くとほとんどの人が、「1945年8月15日にきまってるじゃないか。いまさら、なにをいってるんだ」とおっしゃるかもしれません。たしかに8月15日は終戦記念日とされています。

17. それでは日本と戦った米国、英国、中国、ソ連は、どの時点を日本との戦いの終わりとみているでしょうか。私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです。

18. 通常、戦争は戦闘行為を停止し、休戦条約を結び、講和条約(平和条約)の交渉をして調印するという手順をふんで、はじめて終戦となります。昭和天皇が「時局を収拾したい」とか、「共同声明を受け入れることにした」とのべられたのは、そうした手順の一部にしかすぎません。ドイツは1945年5月7日、降伏文書に署名し終戦をむかえました。日本も1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国艦船ミズーリ号で降伏文書に署名しています。

19. 日本が終戦記念日を8月15日とし、9月2日としていないことに、なにか意味があるのでしょうか。あります。それは9月2日を記念日にした場合、けっして「終戦」記念日とはならないからです。あきらかに「降伏」した日なわけですから。そう、日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目
をそらしつづけているのです。

20. 「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう。

21. 日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」ことを約束したのです。降伏文書には「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」ということが書かれています。

22. 第二次大戦後、日本は米国に完全に従属する形で新しいスタートを切ったのです。そうした占領期に、日本の首相として活躍したのが吉田茂です。

23. 1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印式が行われました。ミズーリ号を調印の場にするというのは、トルーマン大統領自身が決めていた計画です。いったいなぜか。答えは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北を印象づけるために、米艦隊のなかでもっとも強力な軍艦の上で行う」というのが、戦艦ミズーリ号が選ばれた理由でした。

24. 日本は1945年9月2日、降伏しました。「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。それが、1945年9月2日から1951年9月8日(日本時間9日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。
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2018年07月22日

177.日米関係さもあらん(1)〜孫崎享『戦後史の正体』より〜

筆者が憲法と向き合って久しいが、その過程で避けては通れない2つの問題に気がついた。1つは歴史。具体的には満州事変以降の日本の歴史である。そしてもう一つが日米関係だ。人権は憲法で保障されているはずである。その人権が守られない時、アメリカが関与しているケースのなんと多いことか。沖縄がいい例だ。

なぜ日本はここまでアメリカに弱いのか? なぜすべての政策においてアメリカの言いなりなのか? この疑問は長らく筆者の中でくすぶり続けていた。そして「日米関係と日本国憲法は両立しない」ということを確信するに至った。今、この疑問の核心がくっきりと見えるところまであと一歩、というところまで来たように思う。優れた本たちのおかげである。孫崎享さんの『戦後史の正体』もそうした書物の1冊。さもあらん! と納得する箇所が随所にあった。うろこがいくつあっても足りないと思うほど目からうろこが落ち、次第にそうしたポイントを資料として控えておきたくなった。この作業はしばらく続きそうである。ぜひ、お付き合いされたし。


01. 日本の戦後史は「米国からの圧力」を前提に考察しなければ、その本質が見えてきません。

02. 戦後の日本外交は、米国に対する「追従」路線と「自主」路線の戦いでした。

03. 日米の外交におけるもっとも重要な課題は、つねに存在する米国からの圧力(これは想像以上に強力なものです)に対して、「自主」路線と「対米追随」路線のあいだでどのような選択をするかということです。そしてそれは終戦以来、すっとつづいてきたテーマなのです。

04. 「なぜ日本はこうも米国の圧力に弱いのだろう」この問いは、私の外務省時代を通じて、常につきまとった疑問でもありました。

05. 米国からの圧力や裏工作は、現実に存在します。

06. 日本は1945年9月2日、ミズーリ号で降伏文書に署名しました。そこから「戦後」が始まります。この戦後の最初の日から、日本は「対米追随」と「自主」のあいだで重大な選択をつきつけられたのです。

07. 多くの政治家が「対米追随」と「自主」のあいだで苦悩し、ときに「自主」路線を選択しました。歴史を見れば、「自主」を選択した多くの政治家や官僚は排斥されています。

08. 私は日本のなかでもっとも米国の圧力に弱い立場にいるのが首相だと思っています。

09. 冷戦期にアメリカ(CIA)やソ連(KGB)がイタリアで行なっていた裏工作は、同じく日本でも行われていたと考えるのが常識です。事実、1950年代から60年代にかけて、CIAが自民党や民社党の政治家に巨額の資金を提供していたことは、米国側の公文書によってあきらかにされています。歴史を勉強していない人だけが、それを「陰謀論だ」などといって安易に否定するのです。

10. 日本が今後、国家としての方針を決定するときも、過去の歴史のなかでどうような形で米国から圧力をかけられ、どうような形で路線選択をしてきたか、よく知っておく必要があります。とくに米国に対し「自主」路線をつらぬくことがどれほどむずかしいか、よく理解しておく必要があります。

11. 日本の戦後史について、いろいろと素晴らしい研究があります。しかし日本の戦後史全体を、米国からの圧力とそれへの抵抗を軸に記述した本はありません。

12. 米国に対する「追随路線」と「自主路線」の対立という視点から大きな歴史の流れをみることによって、はじめて日本人は過去の歴史を正確に理解することができ、日本の行く先も見えるようになるのだと思います。

13. 私は長く外務省にいたため、米国からのさまざまな圧力や、「対米追随」と「自主」というふたつの外交路線の対立について、実際に現場で体験しています。その大きな歴史の流れを描くことを、もしだれかがやらなければならないとすれば、勇気をもって行うべきはおそらく外務省のOBでしょう。

14. 戦後の混乱のなかで、米国に毅然と立ち向かい、意見を主張した政治家たちがいました。重光葵、石橋湛山、芦田均、鳩山一郎などです。驚くことに多くの人の印象とは逆に、岸信介もこのなかに入ります。そして彼らの多くは、米国によって政治の表舞台から排斥されています。

15. 対米追随路線と自主路線。このふたつの糸で戦後の日米関係を書いてみたいと思います。冷戦後ではなく、1945年9月2日から始めたいと思います。


posted by Lily at 15:17 | 政治と憲法
2018年07月15日

176.アメリカの「小麦戦略」

憲法問題を掘り下げるにあたり、やはりアメリカという国を知ることが欠かせないと筆者は考えている。憲法のウラにアメリカがいる。いなかったことが一度もない。そうではなかろうか。

アメリカという国は、一言で言えばすごい国である。偉大とも言えるし恐ろしいとも言える。とにかく大きな力を持った国である。戦後のアメリカの「小麦戦略」は、そんなアメリカの一側面だろう。以下、るいネット「日本の食もアメリカに支配されている」から「『アメリカ小麦戦略』(食生活史研究家の鈴木猛夫著)より抜粋」を引用させていただく。

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■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫
 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。

■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。
 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。

■アメリカ小麦戦略
 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。

■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など
 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。
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また、別のブログ(「管理栄養士圓尾 和紀のカラダヨロコブログ」)にかような記載を見るが、

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1945年に戦争が終わると、
状況は一変します。
 
アジアでは戦いが終わったことにより、
兵士たちの食糧が必要なくなりました。
 
一方、ヨーロッパでも農業が復興し、
アメリカに頼らずとも
自国で食糧がまかなえるように回復したのです。
 
これにより、アメリカは困ります。
それまで多額に資金を投資し、
大量の農産物を作って輸出していましたが、
突如それまであった需要がぽっかりと
消滅してしまったのです。
 
このままではアメリカは大量の小麦をはじめとする
農産物の在庫を抱えることになり、
国内の農業に大打撃を与えてしまします。
 
さらに悪いことには、麦は米のように保存性が高くないため、
アメリカにとっては火急の問題でした。
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この問題を解決するのに、日本がひと役買った、あるいは買わされた事実は否めない。アメリカの計画は見事に成功している。つくづく、恐ろしいほど大きな力を持った国である。



posted by Lily at 19:56 | 政治と憲法
2018年07月08日

175.平和の詩「生きる」全文

2018年6月23日の沖縄慰霊の日。沖縄県糸満市の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が行われた。その式典、相良倫子さん自作の「平和の詩」が際立っていた。詩そのものも、朗読ぶりも、立派であった。歴史学者の住友陽文さんも「名文とあると同時に、現代史の史料として長く保存されるべき文章だ」と絶賛している(2018/06/26琉球新報)。さよう。資料として保存すべく、原文のままの保存版(沖縄県平和祈念資料館提供)。



<平和の詩全文> 生きる 浦添市立港川中学校3年 相良 倫子

生きる 浦添市立港川中学校3年 相良 倫子


私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
私は今、生きている。
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
私はこの瞬間を、生きている。
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃え尽くされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。
手を取り合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法
2018年07月01日

174.翁長知事の平和宣言(2018年6月23日)

「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか」。

上記は2018年6月23日の沖縄慰霊の日の、翁長知事による平和宣言の一節である。朝鮮半島の非核化への共同声明が、米朝首脳会談で発表されたにもかかわらず、辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策という日本政府。ここに至ってなお、どうしても辺野古に新基地を作らなければならないというのなら、納得のいく説明を聞かせていただきたし。以下は沖縄慰霊の日に寄せられた、翁長知事による平和宣言全文である。

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二十数万人余の尊い命を奪い去った地上戦が繰り広げられてから、73年目となる6月23日を迎えました。

私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び、平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日を生きています。

戦後焼け野原となった沖縄で、私たちはこの「沖縄のこころ」をよりどころとして、復興と発展の道を力強く歩んできました。

しかしながら、戦後実に73年を経た現在においても、日本の国土面積の約0.6%にすぎないこの沖縄に、米軍専用施設面積の約70.3%が存在し続けており、県民は、広大な米軍基地から派生する事件・事故、騒音をはじめとする環境問題等に苦しみ、悩まされ続けています。

昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、先日の、米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや平和体制の構築について共同声明が発表されるなど緊張緩和に向けた動きがはじまっています。
 
平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません。「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません。
 
これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきたとおり、沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制の在り方について、真摯(しんし)に考えていただきたいと願っています。
 
東アジアでの対話の進展の一方で、依然として世界では、地域紛争やテロなどにより、人権侵害、難民、飢餓、貧困などの多くの問題が山積しています。
 
世界中の人々が、民族や宗教、そして価値観の違いを乗り越えて、強い意志で平和を求め協力して取り組んでいかなければなりません。
 
かつて沖縄は「万国津梁(しんりょう)」の精神の下、アジアの国々との交易や交流を通し、平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。
 
そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、再び、アジアの国々を絆(つな)ぐことができる素地ができてきており、日本とアジアの架橋(かけはし)としての役割を担うことが期待されています。
 
その期待に応えられるよう、私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません。
 
本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げるとともに、恒久平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に伝え、未来を担う子や孫が心穏やかに笑顔で暮らせる「平和で誇りある豊かな沖縄」を築くため、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。
posted by Lily at 18:09 | 政治と憲法