2016年11月27日

91.太平洋戦争へ(2)

歴史にもしもはありませんが、もしもあの時、
日米交渉継続派の近衛内閣が存続していたら?

前回に引き続き、
太平洋戦争(1941~1945)に至った経緯を
つかむべく『爆笑問題の戦争論』より。

アメリカの石油の禁輸によって
大打撃を受けることになった日本。
海軍の中間層では
石油があるうちに開戦すべきだとの意見が
強くなっていきましたが、そんな中、
近衛はルーズベルト大統領と直接交渉しようと
メッセージを送ります。
しかし、アメリカはその時、既に
対日参戦を決めていましたから、
近衛のしたことは無駄でした。
その後、御前会議で
「帝国国策要綱」が決定されます。
これは、4ヶ月で東南アジア一帯を占領し、
海軍が真珠湾を攻撃する、という計画でした。
近衛はこの時点でも
あくまで日米交渉を主張しますが、
解決の見込みはなく、近衛内閣は総辞職。
代わって東条英機が首相になります。
その後、3度目の御前会議で、
対米英戦争を決意。
武力発動は12月と決定します。
その一方で対米交渉は続け、
そこでは妥協案として
「仏印以外には進出しないから
米英は石油などの資源の獲得を保証せよ」
という提案をします。
しかしこの案では
中国からの日本軍の撤退を要求するアメリカとの妥協は
ありえませんでした。
しかもアメリカは当時
日本の暗号解読に成功しており、
御前会議の決定も筒抜けでした。
アメリカは、日本が妥協案を出しているその裏で、
対米戦争の準備を着々と進めていることを
全部知っていたのです。
つまり、アメリカが日本との交渉には
応じるわけはなかったのです。

※引用参考データ:
『爆笑問題の戦争論』(2006)幻冬舎
posted by Lily at 10:01 | 政治と憲法
2016年11月20日

90.太平洋戦争へ(1)

戦争に至った経緯を詳細に知ることは、
日本国憲法を理解する上で
とても大切なことだと思います。
なぜなら憲法の前文に
「政府の行為によって戦争が起こった」
という事実を認める文言が
明記されているのですから。

第二次近衛内閣は
国内でファシズム体制を作り上げる一方で、
対米戦争だけは是が非でも避けようと
思っていました。
やはりアメリカにはかなわないだろう、
いう意識があったようです。
そして野村吉三郎という海軍大将が
駐米大使に任命されます。
野村吉三郎は戦争を回避しようと
アメリカ国務長官のハル(Cordell Hull)と
折衝を開始します。
当時はこのハルという人物が
アメリカとの交渉において
最も重要な人物でした。

しかしこの交渉はうまく進みません。
ハルが野村吉三郎に対し
「ハル四原則」なるものを手渡したのです。
これは、
・領土と主権の不可侵
・内政不干渉
・通商上の機会の平等
・国際紛争の平和的解決
というもので、
これに「親独強硬派」は絶対反対でした。
その後、独ソ戦が開始されると
軍部はいっそう強硬になり、
御前会議で南部仏印への進駐を決定。
(御前会議というのは、国家の重大事に関し
天皇と大臣たちが行う最高会議のことです)。
進駐すると、アメリカは
石油の禁輸を実施します。
この石油の禁輸は日本にとって
大打撃となりました。
なぜって、石油がないということは、
航空機、軍艦、軍用トラックなどが、
全て機能しなくなるということですから。
日本の石油備蓄は
約2年分しかなかったため
海軍の中間層では、
「石油があるうちに開戦すべき」
という意見が強くなっていったのです。

※引用参考データ:
『爆笑問題の戦争論』(2006)幻冬舎
posted by Lily at 09:13 | 政治と憲法
2016年11月13日

89.ファシズム体制

まず、ファシズム(fascism)とは:
「第一次大戦後に現れた
全体主義的・排外的政治理念、
またその政治体制。
自由主義を否定し
一党独裁による専制主義・国粋主義をとり、 
指導者に対する絶対の服従と
反対者に対する過酷な弾圧、
対外的には反共を掲げ侵略政策をとることを
特色とした」(『大辞林』第三版)。

以下は『爆笑問題の戦争論』より。
日独伊三国同盟締結当時、
ドイツは既にオランダ、フランスを占領し、
破竹の勢いがありましたから
日本軍部の中では
このドイツにならえという空気が
強くなっていきました。
日本はドイツにならって、
強力な一国一党制の実現に
意欲を燃やしました。
これが近衛文麿(当時の日本の首相)の
近衛新党構想です。
既成政党の側からも
この近衛新党構想に対応して
一国一党制を主張し、
聖戦貫徹議員連盟が結成されます。
規制政党は相次いで解党し、また、
石原莞爾グループなどによる
下からのファッショ推進運動もあり、
日本中がファシズムの方向へ進み出し、
「八紘一宇」という言葉がスローガンとなりました。
これはアジア全土を日本が中心となってまとめる、
という思想です。
1940年、近衛は、大政翼賛会を発足させます。
これは反対を許さないという体制で、
実質、ファシズムが体制的に成立したことになります。

ちなみに「八紘一宇」ですが、これは、
「天下を一つの家のようにすること」で、
第二次大戦中、
日本の中国や東南アジアへの侵略を
正当化する標語として使われました。

※引用参考データ:大辞林第三版、
『爆笑問題の戦争論』(2006)幻冬舎
posted by Lily at 19:58 | 政治と憲法
2016年11月06日

88.アメリカとの全面対決へ

わずか4ヶ月半で退陣した阿部内閣の
次の米内(よない)内閣は、
日米対立の緩和を目指しました。
しかし、ドイツが西部戦線で圧勝し
フランスがドイツに降伏し、再び
日独伊三国同盟推進派(軍部革新派)が
台頭してきます。  
ドイツと組めば戦争に勝てる。
そんなムードになっていったのですね。

ここで「南進論」が浮上します。
南進論とは東南アジアへの侵略で、
英米の蒋介石支援ルートを遮断することと、
南方の資源確保が目的で、要するに
ドイツの勝利とオランダ、フランス降伏に乗じ、
東南アジアを一気に侵略しようという発想。
軍部は「バスに乗り遅れるな」と
南進論の旗を振りました。

そして、第二次近衛内閣が成立し
東亜新秩序、南進論が国策の基本になり、
インドシナへの武力南進が始まります。
この日本の南進行為に対して、
アメリカが実施したのが
石油・屑鉄の輸出制限と、
航空機ガソリンの対日禁輸。
禁輸は日本にとって大打撃となり
それでますます南方への武力行使へと
進まざるをえなくなりました。
そして日独伊枢軸強化が合意され、
1940年9月27日、ついに
日独伊三国同盟が結ばれます。
この体制によって
アメリカとの全面的な対立の構造が
出来上がっていたのです。

いかに戦争を回避するかを考える上で
過去の戦争への経緯を知ることは
極めて意味深いことであります。

※引用参考データ:
『爆笑問題の戦争論』(2006)幻冬舎
posted by Lily at 20:24 | 政治と憲法