2018年08月12日

180.平成最後の広島平和宣言(全文)

沖縄の翁長知事が8月8日に急逝した。翁長氏による 6月23日の平和宣言は、平成最後の沖縄平和宣言であると同時に、氏の魂をふりしぼった最期のメッセージでもあった。氏の平和宣言をこのブログ(資料編)に収めたところであるが(174.ご参照)、あわせて平成最後の広島平和宣言、そして長崎平和宣言を収録しておくべきだと考える次第である。まず、こちら広島平和宣言である。

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73年前、きょうと同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました。皆さん、あなたや大切な家族がそこにいたらと想像しながら聞いてください。8時15分、目もくらむ一瞬の閃光(せんこう)。セ氏100万度を超える火の玉からの強烈な放射線と熱線、そして猛烈な爆風。立ち昇ったきのこ雲の下で何の罪もない多くの命が奪われ、街は破壊し尽くされました。「熱いよう!痛いよう!」つぶれた家の下から母親に助けを求め叫ぶ子どもの声。「水を、水を下さい!」息絶え絶えのうめき声、うなり声。人が焦げる臭気の中、赤い肉をむき出しにして亡霊のごとくさまよう人々。随所で降った黒い雨。脳裏に焼きついた地獄絵図と放射線障害は、生き延びた被爆者の心身をむしばみ続け、今なお苦悩の根源となっています。

世界にいまだ1万4000発を超える核兵器がある中、意図的であれ偶発的であれ、核兵器がさく裂したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。

被爆者の訴えは、核兵器の恐ろしさを熟知し、それを手にしたいという誘惑を断ち切るための警鐘です。年々被爆者の数が減少する中、その声に耳を傾けることが一層重要になっています。20歳だった被爆者は「核兵器が使われたなら、生あるもの全て死滅し、美しい地球は廃虚と化すでしょう。世界の指導者は被爆地に集い、その惨状に触れ、核兵器廃絶に向かう道筋だけでもつけてもらいたい。核廃絶ができるような万物の霊長たる人間であってほしい」と訴え、命を大切にし、地球の破局を避けるため、為政者に対し「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かうよう求めています。

昨年、核兵器禁止条約の成立に貢献したICANがノーベル平和賞を受賞し、被爆者の思いが世界に広まりつつあります。その一方で、今世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められるなど、各国間に東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況にあります。

同じく20歳だった別の被爆者は訴えます。「あのような惨事が二度と世界に起こらないことを願う。過去の事だとして忘却や風化させてしまうことがあっては絶対にならない。人類の英知を傾けることで地球が平和に満ちた場所となることを切に願う」。人類は歴史を忘れ、あるいは直視することをやめたとき、再び重大な過ちを犯してしまいます。だからこそ私たちは「ヒロシマ」を「継続」して語り伝えなければなりません。核兵器の廃絶に向けた取り組みが、各国の為政者の「理性」に基づく行動によって「継続」するようにしなければなりません。

核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核拡散防止条約)に義務付けられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取り組みを進めていただきたい。

私たち市民社会は、朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって平和裏に進むことを心から希望しています。為政者が勇気を持って行動するために、市民社会は多様性を尊重しながら互いに信頼関係を醸成し、核兵器の廃絶を人類共通の価値観にしていかなければなりません。世界の7600を超える都市で構成する平和首長会議は、そのための環境づくりに力を注ぎます。

日本政府には、核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

本日、私たちは思いを新たに、原爆犠牲者のみ霊に衷心より哀悼の誠をささげ、被爆地長崎、そして世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。
posted by Lily at 13:34 | 政治と憲法
2018年08月05日

179.日米関係さもあらん(3)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

25. 第二次世界大戦の日本においても、東京裁判にかけられるところまではいかなくても、職を奪われた人たちが大勢いました。まず軍国主義に関与した人物として、1946年1月に約6千名が公職から追放されました。ついで1947年1月から48年8月までのあいだに、政党・経済界・報道機関などの要職についていた人たちが約19万名追放されています。当時の雰囲気を、内務省で公職追放令を創る作業にあたっていた後藤田正晴(のちに警察庁長官、官房長官などを歴任)は、次のように書いています。「みんな自分だけは解除してくれと頼みに来る。見るも無残だな。えらい人が陳情にくるんだ。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと〔思ったものだ〕」(『情と理―後藤田正晴回顧録』講談社)。こうした状況のなか、なんとか米国に追従しようとする動きがうまれてくるのは当然かもしれません。

26. 戦後の日本外交における「自主路線」のシンボルが重光葵です。「対米追随路線」のシンボルが吉田茂です。そして重光は当然のように追放されます。重光外相は、降伏文書に署名した9月2日のわずか2週間後、9月17日に外務大臣を辞任させられています。「日本の国益を堂々と主張する」。米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。求められるのは「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう外務大臣です。それが吉田茂でした。重光が辞任した後、次の外務大臣は吉田茂になります。戦後の日本外交の歴史において「自主路線」が「対米追随路線」にとって代わられる最初の例です。

27. 吉田茂は占領期・占領後を通じて、外相、首相と重要な役職を歴任し、戦後日本の方向を決めた人物です。さらに吉田の政策はその後、自民党の政策となり、50年以上継続します。

28. 占領初期、米国は日本経済を徹底的に破壊します。現在の私たちが常識としているような「寛容な占領」だったわけでは、まったくありません。その方針が変わるのは冷戦が始まり、日本をソ連との戦争に利用しようと考えるようになってからのことなのです。吉田首相が占領軍とやりあったから、戦後の経済復興があったわけではありません。

29. 占領時代、外務省はどの官庁よりも米国の影響を受けました。外務省に、気を見るに敏,事大主義の気質がどの官庁よりも強く存在していても不思議はない気がします。

30. 「日本は米国の保護国である」といえば、多くの人は「そんなバカな」という反応を示されると思います。しかし米国人の発言のなかには、たしかに保護国という言葉が出てくるのです。ブレジンスキー(カーター大統領時代、国家安全保障担当の大統領補佐官として辣腕をふるった人です)は『グランド・チェスボード』という本の中で、日本をアメリカの「安全保障上の保護国」(セキュリティ・プロテクトレイト)と書いています。

31. 「日本が米国の保護国である」という状況は、占領時代に作られ、現在までつづいているものです。ではなぜ、「日本が米国の保護国である」という状況が、一般国民の眼には見えないのでしょう。それは実にみごとな間接統治が行われているからです。間接統治では、政策の決定権は米国がもっています。しかし米国の指示を執行するのは日本政府です。「米国が日本政府に命令している場面」は国民に見えません。見えるのは日本政府が政策を実行しているところだけです。その部分だけを見ると、日本は完全に独立しているように見えます。しかしだれが安全保障政策を決定し、命令しているかとなるとそれは米国です。日本はただ従属しているだけというケースが多いのです。
posted by Lily at 17:21 | 政治と憲法
2018年07月29日

178.日米関係さもあらん(2)〜孫崎享の『戦後史の正体』より〜

16. 日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう。こう聞くとほとんどの人が、「1945年8月15日にきまってるじゃないか。いまさら、なにをいってるんだ」とおっしゃるかもしれません。たしかに8月15日は終戦記念日とされています。

17. それでは日本と戦った米国、英国、中国、ソ連は、どの時点を日本との戦いの終わりとみているでしょうか。私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです。

18. 通常、戦争は戦闘行為を停止し、休戦条約を結び、講和条約(平和条約)の交渉をして調印するという手順をふんで、はじめて終戦となります。昭和天皇が「時局を収拾したい」とか、「共同声明を受け入れることにした」とのべられたのは、そうした手順の一部にしかすぎません。ドイツは1945年5月7日、降伏文書に署名し終戦をむかえました。日本も1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国艦船ミズーリ号で降伏文書に署名しています。

19. 日本が終戦記念日を8月15日とし、9月2日としていないことに、なにか意味があるのでしょうか。あります。それは9月2日を記念日にした場合、けっして「終戦」記念日とはならないからです。あきらかに「降伏」した日なわけですから。そう、日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目
をそらしつづけているのです。

20. 「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう。

21. 日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」ことを約束したのです。降伏文書には「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」ということが書かれています。

22. 第二次大戦後、日本は米国に完全に従属する形で新しいスタートを切ったのです。そうした占領期に、日本の首相として活躍したのが吉田茂です。

23. 1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印式が行われました。ミズーリ号を調印の場にするというのは、トルーマン大統領自身が決めていた計画です。いったいなぜか。答えは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北を印象づけるために、米艦隊のなかでもっとも強力な軍艦の上で行う」というのが、戦艦ミズーリ号が選ばれた理由でした。

24. 日本は1945年9月2日、降伏しました。「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。それが、1945年9月2日から1951年9月8日(日本時間9日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。
posted by Lily at 00:00 | 政治と憲法

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